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清澤眼科医院

清澤 源弘 院長

清澤 源弘 院長プロフィール

1953年に長野県木曽郡大桑村で生まれる。1978年に東北大学を卒業し、東北大学眼科教室に入局する。東北大学病院で研修を行う。1980年に東北大学大学院に入学し、途中の1年間を北里大学病院に国内留学し、病棟医を務める。1984年に東北大学大学院を修了する。1986年にフランス原子力庁に研究員として留学する。1987年に渡米し、ペンシルバニア大学にフェローとして、またウイリス眼科病院に臨床フェローとして留学する。1988年に東北大学眼科の講師に就任を経て、1992年に東京医科歯科大学眼科の助教授に就任する。1999年に東京医科歯科大学大学院の助教授に就任する。2005年に東京都江東区に清澤眼科医院を開設する。2007年に順天堂大学附属江東高齢者医療センター非常勤講師、東京医科歯科大学臨床教授を兼任する。日本眼科学会専門医、東京都眼科医学会学術部委員、日本神経眼科学会理事、アジア神経眼科学会理事、眼瞼・顔面けいれん友の会顧問、日本緑内障学会会員、第33回日本神経眼科学会総会会長(1995年)、第16回国際神経眼科学会副会長(2006年)、東京都老人研究所協力研究員、銀座小松診療所非常勤登録医など。

 東京都江東区南砂は街の東側を荒川が流れるリバーサイドに位置し、江戸時代から栄えてきたエリアである。下町や江戸情緒が感じられる街並みと、中層、高層マンションが林立する新しい街並みが混在し、江東区は人口も約50万人を数えている。東京メトロ東西線の南砂町駅から大手町まで10分程で結ぶため、都心とのアクセスは良好である。都心に近い割には緑が多く、荒川砂町水辺公園や南砂三丁目公園、仙台堀川公園がある。南砂町駅の南側は再開発が進み、南砂町ショッピングセンターSUNAMO(スナモ)が立地するほか、複合商業施設のトピレックプラザにも多くの買い物客が訪れている。
 この南砂町駅前に2006年に開業したのが清澤眼科医院である。清澤院長は神経眼科を専攻し、視野障害、眼球運動障害、頭痛などの脳神経に起因する様々な眼症状の診断、治療を行ってきた。特に、眼瞼痙攣治療のパイオニアとして知られている。現在は東京医科歯科大学臨床教授、順天堂大学附属江東高齢者医療センター非常勤講師を兼任し、東京医科歯科大学では視神経疾患の外来を担当している。そのため、関連施設でのCT、MRI、PETなどを駆使した最先端の医療を行えるのが清澤眼科医院の大きな特徴である。
 今月は清澤眼科医院の清澤源弘(もとひろ)院長にお話を伺った。


開業に至るまで

病院風景 ◆ 医師を目指された経緯をお聞かせください。
 伯父の小原博亨(ひろよし)が眼科医で、神経眼科を専攻していたのです。伯父は名古屋鉄道病院に勤めていました。現在の名古屋セントラル病院ですね。まだCTやMRIのない時代に脳腫瘍の診断をしていたんですよ。その伯父から「君も医学部に入るといい、面白いよ」と勧めてもらったのがきっかけです。

◆ 大学時代はどのような学生でしたか。
 授業には毎回、出席するような真面目な学生でした。でも、入局後教授からは「授業には真面目に来るのに、最前列でよく居眠りしていたね」と言われていました(笑)。クラブ活動もしていませんでしたし、最近の学生に近いライフスタイルだったのではないでしょうか。

◆ 大学時代はどんなご趣味をお持ちでしたか。
 陶芸が好きで、大学の近くにあった教室に通っていました。陶芸の相沢正巳先生からは社会とはどういうものであるのかということまで教えていただき、大きな影響を受けました。

◆ 専門を決められた経緯をお聞かせください。
 眼科医の伯父の勧めがあって医学部に進学しましたので、最初から眼科が選択肢の中にありました。一方で、体内での物質変化に興味があったので、代謝にも惹かれましたが、やはり神経がキーワードの一つでしたし、神経内科や脳神経外科とも迷いましたが、自分のペースで研究できそうな神経眼科に決めました。
 東北大学の桑島治三郎名誉教授は日本にも多発性硬化症が存在することを突き止めた方ですが、伯父の親友でもあったので、「仙台に後輩ができた」ととても喜んでくださり、東京に出ていくときも応援してくださいました。
 桑島先生が多発性硬化症を発見したとき、東大の教授陣からは認められなかったそうで、学会でも迫害を受けていらっしゃいました。それでも研究を続けられて、『回顧実録 日本の多発硬化症』というご本を出版されたのです。桑島先生の「患者さんが医師にとっての教授である」という教えは今も大切にしています。

◆ 北里大学に移られたのはなぜですか。
 北里大学の眼科教室の初代教授でいらした石川哲先生は神経眼科がご専門で、石川先生の教えを受けるために国内留学をしました。当時の北里大学は神経眼科の梁山泊といった雰囲気で、全世界から留学生が集まっており、面白かったですね。井上眼科病院の名誉院長になられた若倉雅登先生の被指導医でした。ここで、病棟医として急患の対応にもあたりながら、神経眼科の手ほどきを受け、仙台に戻りました。

◆ フランスにもいらしていますね。
 ポジトロンCTの眼科的適応というテーマで放射線医学を学ぶために渡仏しました。フランスには1年いて、アメリカに移りました。

◆ 東北大学に戻られてからはいかがでしたか。
 東北大学では当時、神経眼科が途切れていたのです。そこを復興しようと、神経眼科を始めました。その結果、東京で檜舞台を与えていただいたように思います。

◆ 東京医科歯科大学に移られた経緯をお聞かせください。
 藤野貞先生のご推薦がありました。私は北里大学時代から藤野先生の教えを受けていたのです。藤野先生は広島で原爆を見たという経験をお持ちです。その後、長崎大学の助教授や東大での勤務を経て、アメリカで神経眼科学を学ばれました。帰国後は東京医科歯科大学、慶應義塾大学、東京大学、北里大学、都立府中病院など、大学の壁を超えて臨床的な神経眼科学を後輩に指導することを一生の仕事とされていました。晩年に至るまで、あらゆる神経眼科の国際学会に参加されていましたので、欧米の神経眼科医には最も知られた日本人の神経眼科医でしたね。日本神経眼科学会には生前から多額の寄付をされ、「日本神経眼科学会Fujino Fund」として、今も学会活動を支えています。

◆ 勤務医時代を振り返って、いかがですか。
 桑島先生からの教え、藤野貞先生、寿先生ご夫妻からの「今、目の前にいる患者さんに良きように」という教えなど、多くの先生方に恵まれたと感謝しています。特に、藤野先生ご夫妻は電気生理学や分子生物学に頼らない臨床神経眼科学の必要性を強調され、自分の目で眼球運動や視神経乳頭を観察し、考えることの重要性を、私たち弟子たちに常に説いていらっしゃいました。


開業の契機・理由

病院風景 ◆ 開業の動機をお聞かせください。
 いくつかの大学の教授選に出たのですが、主任教授にたどり着くことはできませんでした。助教授のままでいるという選択肢もあったのでしょうが、助教授は次に飛び立とうとする人のためのポジションです。そのポジションを飛び立てなかった人が塞いではいけないと考え、開業を決意しました。医師が患者さんに支持される指標の一つが受診される患者さんの多さでしょう。患者さんからの支持をいただくためにも、常に新しいことに挑戦しようという気持ちで一杯でした。

◆ 開業地はどのように選ばれたのですか。
 住まいの近くである中野や高円寺をまずピックアップしましたが、南砂町も昔、住んでいたことがあって、馴染みがあったのです。開業医をかかりつけにしている方は余程、気に入らないことがない限りはかかりつけ医を変えることはありません。しかし南砂町は人口の流動性が大きく、人口自体も増えているので、患者さんを確保しやすいことが魅力でした。私のブログを見て、全国から来てくださる患者さんと地元の患者さんの両方に恵まれましたので、結果としては良かったですね。

◆ 開業地をご覧になっての第一印象はいかがでしたか。
 駅のほぼ正面ですし、亀戸や錦糸町行きのバスのターミナルもビルの前にあり、印象は良かったですね。このビルは既にできており、歯科やIHIのオフィスが入っていましたが、2階が空いていたのです。私どもが入居してから美容院、内科、託児所が入りました。南砂町駅は1日の乗降者数が6万人あり、ホームの増設も予定されているようですし、駅周辺の再開発も活発で、将来性に期待が持てました。

◆ 開業するまでにご苦労された点はどんなことですか。
 設計でしょうか。従兄弟の設計士に依頼したのですが、従兄弟は統一性を強調しますし、私は不必要なお金をかけたくないですし、大喧嘩しましたよ(笑)。設計者は自分の作品という思いが強いので、美しく、かつ機能的に作りたかったんでしょうね。お互いの意見を擦り合わせて作っていきましたが、後の増築も含め、今はとても満足しています。

◆ 当初はどういったスタッフ構成でしたか。
 検査員、事務員が1人ずつ、検査員と事務員を兼ねたスタッフが1人といった構成で、すんなり決まりましたよ。その後、スタッフを増やして、内容も充実させていきました。

◆ 医療設備については、いかがでしょうか。
 最低限のものしか揃えないと決めていました。高額な検査機器を導入したら、減価償却のために、どうしても無駄な検査をしてしまいます。そういうことをすれば、患者さんも気付きますし、サービス業である以上はしてはいけないことだと思います。

◆ 設計や内装のこだわりについて、お聞かせください。
 常に2人の医師がいる、2診制で行うことや専門外来を行うことを考えていたので、診察室を3室、設けたことです。2診制ですと、眼底を丁寧に診たり、ゆっくり説明を行うことができますね。

◆ 増築されたんですよね。
 南砂町駅が1.5倍の規模に拡大すると聞き、患者さんが増えることが予想されましたので、クリニックの拡充を考えていました。ちょうど、お隣りの美容院が引っ越しをされると聞きましたので、そこも借り、スペースを広げたんです。去年の12月に決定して、完成したのが今年の6月でした。


クリニックについて

病院風景 ◆ 診療内容をお聞かせください。
 眼科、神経眼科、小児眼科を掲げています。小児の眼疾患、花粉症などのアレルギー疾患、白内障や緑内障なども多いですね。
 また、コンタクトレンズも取り扱っています。コンタクトレンズは清潔な1日タイプ、眼に優しい新素材の30日タイプを中心に、患者さんに納得していただける価格で、即日、承っています。
 神経眼科では、視野障害、眼球運動障害、頭痛などの脳神経に起因する様々な眼症状を診断しています。眼瞼痙攣は原因によって、本態性眼瞼痙攣、症候性眼瞼痙攣、薬剤性眼瞼痙攣の3つに分けられます。治療法は目の周りの筋肉へのボトックス投与、薬剤の服用、クラッチメガネの利用、手術などがありますが、ボトックスによる治療はかなり良い結果が出ています。私どもでも最適な部位に最適量でのボトックス治療を行っています。
 若倉雅登先生が不明愁訴という言葉を造られました。不定愁訴は主訴の側からの言葉です。患者さんは普通は病名を知らないので、「ものが二重に見える」などと訴えてきますし、訴えが次々に変わることもあります。そして、医師は医学の体系の中で診断をつけるわけです。ところが、不明愁訴は患者さんからの訴えが正確であるにも関わらず、医師の知識不足が原因で、診断が下せない症状のことです。私はこうした不明愁訴を減らしていきたいと思っています。

◆ 専門外来にも力を入れていらっしゃいますね。
 角膜外来、緑内障外来、神経内科外来、神経眼科外来、臨床心理士外来を行っています。専門外来の先生方には「一人の患者さんに1時間かけていいので、患者さんを堪能させてほしい。私が診られないところを丁寧に診てほしい」と伝えています。神経内科外来は大学の神経内科の専門医が来てくれています。臨床心理士さんに来てもらっているのは子どもの心因性視覚障害の治療の一環です。臨床心理士が持っている専門性を活かして、子どもの話を傾聴し、助言を与え、親御さんにも納得していただくといった臨床心理外来ですね。

◆ 病診連携については、いかがですか。
 東京医科歯科大学医学部附属病院では週に1回、外来を担当していますので、連携先としては大きな存在ですね。私が他院に先駆けて導入したポジトロンCT、MRI、PETがありますので、特に脳病変を伴う視神経疾患には駆使しています。また、近隣の順天堂大学附属江東高齢者医療センターでは私どもの患者さんの白内障の手術を週に1、2例、行っていただいていますので、私は助手を務めています。
 アメリカの病院でのアフィリエートは大学と開業医の連携という意味では理想ですね。私どもも大学病院の医師と顔の見えるお付き合いを重ねて、相互補完的な関係を築いていきたいと願っています。

◆ 経営理念をお教えください。
 「すべては患者さんのために」ということです。これは「民衆教育の父」と呼ばれたペスタロッチの墓銘碑にあった言葉です。「己を捨てて、全てをほかの人のためになす」というペスタロッチの生き方は素晴らしいですね。私どもではこの言葉を総合南東北病院の渡邊一夫先生に書いていただいた額を飾っています。
 経営の安定化のために、無駄な機械を導入しないようにしています。試用期間中に頻度を見て、購入にあたっては検討を重ねます。無駄な検査は「すべては患者さんのために」になりませんからね。
 また、パスモの導入も行いました。私どもは駅の正面ですので、パスモが院内で使えたら利便性が高いだろうと考えたのです。結果として、日本のクリニックで一番早い導入になりました。

◆ スタッフ教育はどのようにされていますか。
 予約の電話を適切に受けることができるようになるためにはカルテをきちんと読む能力が必要です。単語が英語であっても読めるように指導しています。新患かどうか、どのような検査を行うのかで、予約をお受けできる人数が左右されますので、カルテ教育は大事ですね。このほか、インシデントリポートの作成も指導しています。
 毎朝8時50分からの「朝会」で、連絡事項の確認や院長訓話を行っています。朝会に関しては最初は反発もありましたが、今は成果が上がっています。

◆ 増患対策について、どのようなことをなさっていますか。
 初診の患者さんにはその日のうちにカルテを見直して、ハガキを書いてお出ししています。毎日15通ほどですから、既に18000通はお出ししましたね。今後の治療方針や気をつけていただきたいこと、励ましの言葉などを書いています。
 領収書には請求の明細のほかに、次回の予約日を書き添えていますが、これは予約日に来院されなかった患者さんをカルテでチェックし、悪化しそうな患者さんに早めに声をかけるうえでメリットがあります。
 それからブログですね。「清澤眼科通信」を長く続けており、1日に2500から5000アクセスをいただいています。病名解説を多数、掲示していますので、「検索をしたら、ブログに引っかかった」というケースが多いようです。「私の母にも分かる書き方を」と心がけており、網膜や視神経などの言葉を使わず、黒目、白目、まぶたといった言葉を使っています。家族がこういう診断をされたけど、どうなんだろうと疑問に思った方が検索して、読んでくださったら嬉しいですね。ブログを見て来院される患者さんには主治医として寄り添いながら、必要に応じて専門医に紹介状を書いたり、電話をしたりしています。最近は学会で会った先生方から「ブログの先生ですね」と聞かれることもあり、嬉しいですよ(笑)。


開業に向けてのアドバイス

 私は市中病院に勤務した経験もありませんでしたし、いわゆる落下傘開業です。でも、「すべては患者さんのために」という気持ちで診療にあたってきました。
 たまに聞く話ですが、大きな病院の院長先生が診療内容を増やそうと、手を広げてしまうと、患者さんは遠くからでもいらっしゃるようになりますが、勤務医は疲弊します。医師の体制が揃わないかぎりは過剰に患者さんを呼び寄せるのは無理なんですよね。
 開業医も同様で、複数の医師での「文殊の知恵」をどう活かしていくのかを考えなくてはいけません。そして本人が眼科医としての腕を並以上に持っていることが前提です。分からないことを分かったような物言いをするのは良くありません。患者さんに支持していただくためには優れた技術で臨床を行うとともに、心やホスピタリティが大切です。患者さんの満足度を世界一高くしていきましょう。そのためには職員にも達成感を持ってもらえるような職場作りが不可欠です。


プライベートの過ごし方(開業後)

 読書が趣味です。最近は大正から昭和にかけての歴史の本を読んで、自分で年表も作っているところです。関東大震災のあと、大正デモクラシーやエログロナンセンスの時代になりましたが、東日本大震災後の今の日本の姿とマッチするんです。昭和の初めは行きどころをなくした日本は中国に飛び込んで戦争を起こしてしまいましたが、今度はそうならないためにも当時のことを学んでおくことは大切だと思っています。
 また、妻がジャズを聴くことが好きなので、私も一緒に鑑賞することもあります。


タイムスケジュール

タイムスケジュール

クリニック平面図

平面図

クリニック概要

清澤眼科医院
  院長 清澤 源弘
  住所 〒136-0075
東京都江東区新砂3-3-53 アルカナール南砂2階
  医療設備 ヘススクリーン(眼球運動検査)、オートレフケラトメーター、ノンコンタクトトノメーター、省スペース視力検査装置、ハンフリー自動視野計、ゴールドマン視野計、細隙灯顕微鏡装置(スリットランプ)、デジタル眼底カメラなど
  スタッフ 21人(院長、非常勤医師3人、検査員5人、常勤事務6人、非常勤事務4人、派遣会社からの眼鏡士2人)
  物件形態 ビル診
  延べ床面積 約60坪(診療スペース59坪、コンタクト販売スペース1坪)
  敷地面積 約60坪
  開業資金 約2800万円
  外来患者/日の変遷 開業当初 18人 → 3カ月後 20人 → 6カ月後 25人 → 現在 80人
  URL http://www.kiyosawa.or.jp/
http://blog.livedoor.jp/kiyosawaganka/

2012.12.01 掲載 (C)LinkStaff

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