くろだ明大前クリニック
東京都世田谷区松原は世田谷区北沢地域に含まれ、北沢警察署や北沢税務署が置かれている。甲州街道を継承した国道20号線が街の東西を通り、明大前駅が京王電鉄の本線と井の頭線の接続駅であるなど、交通の要衝となっている。明大前駅は明治大学和泉校舎ができたことから名付けられた駅であり、全ての列車が停車する。周辺は商店街や住宅街が混在した街並みとなっている。
くろだ明大前クリニックは明大前駅から徒歩4分の松原2丁目に2005年に開業したクリニックである。くろだ明大前クリニックでは人工透析を中心に、内科、循環器科を標榜している。透析室は明るく、落ち着いた雰囲気で、椅子透析も可能となっている。
今月はくろだ明大前クリニックの黒田重臣院長にお話を伺った。
黒田 重臣 院長プロフィール
1942年に東京都葛飾区で生まれる。1967年に慶應義塾大学を卒業後、1年間のインターンを経て、内科教室に入局し、慶應義塾大学病院で2年間の研修を行う。慶應義塾大学病院での勤務を経て、1971年に済生会宇都宮病院に勤務する。1973年に慶應義塾大学病院に勤務を経て、1976年にアメリカに留学し、腎臓生理学を研究する。1979年に帰国し、慶應義塾大学病院に勤務を経て、東京大学の薬理学教室で腎臓生理学の研究を行う。1983年に国立大蔵病院(現 国立成育医療研究センター病院)人工腎臓室に主任として勤務する。1984年に国立大蔵病院循環器科医長に就任する。1988年に国立大蔵病院腎・高血圧センター主任に就任する。1989年に国立大蔵病院内科医長に就任する。1991年に国立大蔵病院臨床研究部長に就任する。1995年に国立大蔵病院副院長に就任する。2001年に国立東静病院(現 静岡医療センター)に院長として着任する。2004年に静岡医療センター院長に就任する。2005年に東京都世田谷区松原にくろだ明大前クリニックを開業する。
日本透析医学会専門医、日本腎臓学会専門医、日本透析医学会理事、日本内科学会認定医、静岡医療センター名誉院長など。
開業に至るまで
◆ 医師を目指された経緯をお聞かせください。
父が東京の下町で内科と小児科の医院を開業していたので、父から勧められたのがきっかけです。父は私に跡を継いでほしかったのでしょうね。
◆ 大学時代はどのような学生でしたか。
当時の医学部は今のような厳しさはありませんでした。好きなことをやっていたので、いい学生ではありませんでしたね。仲間とつるんで麻雀屋に入り浸ったり、よく遊んでいました。あの頃は国家試験も難しくなく、不合格自体が珍しかったです。国試の前日は友人の下宿に泊まり、ボーリングに行っていました(笑)。
◆ 大学時代はどんなご趣味をお持ちでしたか。
将棋や囲碁でしょうか。医学部の学生会館に将棋や囲碁のセットが置いてありました。強くはなかったですが、仲間と楽しんでいました。
◆ 専攻を内科に決められたのはいつですか。
卒業する前には決めていました。大学3年の頃に精神科の授業で催眠療法について学んだのですが、これにすっかりのめり込んでしまい、精神科に行くつもりだったのです。それで6年生の夏に高岡市民病院の精神科に実習に行き、ひと夏を過ごしました。しかし、当時は統合失調症への良い治療法はなかったのです。こちらの言葉も通じないし、催眠療法も受け付けられない患者さんを目の当たりにして、内科の方がいいかなと考えました。
◆ 先生はインターンを経験なさっているのですね。
私はインターン制度があった最後の学年です。学生運動も盛んな時代でしたね。ただ、機動隊は我々医学生を弱いと思い込んでいたみたいで、あまり相手にしてくれませんでした(笑)。インターン制度のボイコットもあり、私は国家試験をボイコットしました。それで9月の臨時試験で受かりました。そして1年間のインターンを経て、内科に入局しました。
◆ その中で、腎臓を専門にされたのはなぜですか。
インターンを終えたあと、母校の病院で2年間、済生会宇都宮病院で2年間の勤務をしました。それから母校に帰ったのですが、そのときに腎臓を専門にすることに決めました。腎臓と肺と並んで、人間の身体の中で最も緻密な臓器であることに興味がありましたね。それまでは消化器に進むつもりで、済生会宇都宮病院で初めて胃カメラを勉強したりしていたのですが、教授の専門が肝臓だったので、「私は腎臓にします」と言っていました(笑)。
◆ 留学もなさったのですね。
宇都宮から戻ってきたときに今度は学位のボイコット運動が起こっており、私たちのリーダー的な存在の友人がその中心になっていました。教授会も否定され、解散しました。反教授会が執行部に入り、教授抜きで慶應を動かしていました。それが一段落したときに留学し、3年間アメリカにいました。
◆ アメリカではどのような研究をなさったのですか。
アルバート・アインシュタイン大学で腎臓生理学の研究を行いました。私は以前からコンピューターに詳しかったのです。理工学部に進んだ友達が医学部で開いたコンピューターの講習会に出席したのがきっかけで、コンピューターにはまり込み、フォートランでプログラムを作っていました。アメリカでは誰も使っていなかったので、私が解説書を四苦八苦して読み、プロトコルを作りました。それを見たボスは大喜びで、給料を上げてくれましたよ(笑)。アメリカは回転が早い国で、あるプログラムを作っても3、4カ月後には次のプログラムを作らないといけません。私はボスから重宝され、「残れ」とも言われたのですが、子どもの日本語のためにも帰国することにしました。
◆ 帰国後は東大に行かれたのですね。
帰国してみたら、反体制派はなくなり、教授会が復活していました。私と友人はしっぺ返しを食らいましたね(笑)。研究する場所がなくなってしまい、上司に紹介された東大の薬理学教室に行くことになりました。東大にはアメリカで使っていたものと同じ機材があり、腎臓生理学の研究を続けました。研究が終わったタイミングで国立大蔵病院に移りました。
◆ 国立成育医療研究センターの副院長もされたのですね。
副院長になる直前、国立大蔵病院が国立小児病院と統合して、成育医療研究センターを作る話が出ました。医局でも反対運動が起きましたね。当時、大蔵病院の忘年会は霞が関ビルでやっていました。厚労省を見下ろせるからです(笑)。しかし、国が一度決めたことは覆りません。予算を絞られ、兵糧攻めに見舞われました。その頃に院長から副院長になるように言われたのです。国の政策には逆らえませんから、それから10年かけて、国立小児病院の職員と折衝するなど、統廃合や新病院の建築に関わりました。
◆ 国立東静病院に移られたのはどうしてですか。
2001年4月に成育医療研究センターができましたが、内科はいらないということになったので、3月に院長として、東静病院に行きました。その年に国立伊東温泉病院を、2002年に国立熱海病院を統合し、2004年に独法化して静岡医療センターにしました。そして東静病院の跡地に新病院を建てました。
◆ 勤務医時代を振り返って、いかがですか。
国立大蔵病院での最初の10年は臨床にタッチできたので楽しかったのですが、副院長という管理職ポストに就いてからは大変でした。静岡医療センターを立ち上げたときも同様です。大蔵病院を含めると、15年もの間、臨床以外のことをやっていました。不動産会社か建築会社の人みたいでしたね(笑)。静岡医療センターの目処がついたら辞めたいと思っていました。
開業の契機・理由
◆ 開業の動機をお聞かせください。
静岡医療センターを退職したあと、しばらくはのんびりして、非常勤勤務でもしようかと思っていたのです。そのときに私に人工透析を一から教えてくれた先輩が「俺は引退するから、臨床の現場に帰ってくるなら、このクリニックを面倒見てくれ」と声をかけてくださったのが開業の動機です。
◆ では、開業地は最初から決まっていたのですね。
そうです。この場所で15年ほど開業していた先輩のクリニックを継承しましたので、自分で探したわけではありません。
◆ 開業地の第一印象はいかがでしたか。
ビルの2階ですが、階段しかなく、バリアフリーでないことが気になりました。建物の条件上、エレベーターも設置できません。ただ、透析の目的は延命治療ではなく、社会復帰にありますので、階段が上がれないような患者さんでは社会復帰は大変だと思います。医療費も税金ですから、ある程度は自分で歩くことが大切でしょう。しかし、患者さんが高齢化してきて、階段がきつくなった方が増えました。そこで、階段昇降機をつけました。階段がどうしても無理な方には階段昇降機を使っていただいています。
◆ 開業にあたって、マーケティングはなさいましたか。
していません。カルテの引き継ぎもしませんでしたが、私自身で透析カルテを作り、コンピューター化しました。
◆ 開業までに、ご苦労された点はどんなことですか。
先輩の先生が手ほどきをしてくれたこともあり、開業までの苦労はさほど感じませんでした。でも先輩が「そろそろゆっくりさせてもらうよ」とおっしゃってからは大変でしたね。中でも苦労したのは看護師の雇用です。技術職ですから、なかなか採用に至らず、採用しても居ついてもらえなかったりして、常に人手不足で募集している状況でした。勤務医時代はそういった仕事を事務スタッフがしてくれていたからこそ、医師は臨床に専念できていたのだと改めて気づかされました。
◆ 医師会には入りましたか。
世田谷区医師会に入りました。しかし、透析のクリニックですので、会合にあまり出られません。委員会活動にご協力することも難しいのですが、今は医道審議会のメンバーを務めています。
◆ 開業当初はどのようなスタッフ構成でしたか。
先輩のクリニックのときは看護師が1人だけでした。透析だけとは言え、先輩は大変だったと思います。私が開業するにあたって、看護師はその1人に加え、夜間の非常勤を2人、非常勤の臨床検査技師を1人、雇用しました。事務は娘が常勤で引き受けてくれることになりました。
◆ 医療設備については、いかがでしょうか。
透析ベッド、透析のできる椅子を5台ずつのほかはレントゲンや心電図を揃えました。電子カルテのメリットは事務系だけですから、あえて導入しませんでした。
◆ 設計や内装のこだわりについて、お聞かせください。
壁の塗り替えを行ったほかは、先輩のクリニックの頃と変わっていません。娘が大学の卒業論文でミュシャを取り上げたこともあって、ミュシャ展で購入した初版のコピーを4、5点、院内に飾っています。
クリニックについて
◆ 診療内容をお聞かせください。
人工透析科、内科、循環器科を標榜しています。人工透析の患者さんはさほど多くありませんが、外来でカバーしながら行っています。内科もニーズがあれば診療しています。また、循環器科は慶應の医局から非常勤医師が週に1回、来ています。
◆ どういった方針のもとで、診療なさっているのですか。
私はオートメーション化された透析ベッドがずらっと並んでいるセンターが好きではありません。患者さんは一人一人違いますので、マニュアル通りの画一的な医療ではなく、手作りの医療を行いたいと思っています。患者さんに目や手が届く、テーラーメイドの医療が理想です。現在は20人から30人の患者さんがいらしていますが、一人で診るにはちょうどいい数ですね。
◆ 患者さんの層はいかがですか。
高齢の方が多いです。かつては勤務先の健康診断で引っかかった20代の人が透析導入することが多かったですが、今の平均導入年齢は65歳から70歳ですからね。私どもの最年少の透析患者さんは45歳の方です。内科はお勤めの方がほとんどです。腎臓の患者さんのほか、高血圧や高脂血症の方も診ています。風邪などでは近所の方や明治大学の学生もいらっしゃいます。明大前は高校も多いです。日本女子体育大学附属二階堂高校、日本学園高校、日本大学鶴ヶ丘高校などの高校生もスマホで調べて、来院されますね。
◆ どのような内容の健診を行っていらっしゃいますか。
世田谷区の健診をお受けしています。また、インフルエンザや肺炎球菌ワクチン接種も行っています。
◆ 病診連携については、いかがですか。
病院勤めが長かったので、顔見知りの医師が多く、連携先に恵まれています。慶應義塾大学病院、国立国際医療研究センター病院、杏林大学医学部付属病院、東京慈恵医科大学附属第三病院、東京医療センター、至誠会第二病院、関東中央病院、立正佼成会附属佼成病院、東邦大学医療センター大橋病院、東京医科大学病院、東京都済生会中央病院などと連携しています。
◆ 経営理念をお教えください。
経営に関してはあまり詳しくありませんので、赤字が出ないようにということぐらいです。この10年で学んだことはチームワークの大切さですね。医療は一人ではできませんから、スタッフが辞めないような経営をして、チームプレーができる環境にしたいと思っています。
◆ スタッフ教育はどのようにされていますか。
看護師は家庭がある人ばかりなので、夜間に勉強会などをすると、かえって負担になってしまいます。朝礼もしていません。子どもさんがいると時間に制約が出ますから、病院のような一定の時間にカンファレンスを開催することもできません。そのため、私どもでは連絡帳を使って、情報を共有しています。
◆ 増患対策について、どのようなことをなさっていますか。
以前は電柱広告もしていましたが、今はホームページぐらいです。
開業に向けてのアドバイス
スタッフが一番ですね。いいスタッフとの出会いがあれば、それを大事にしましょう。病院では医師が医療チームのトップにおり、周りは医師に合わせてくれます。しかし、開業後は難しいです。勤務医時代には開業後に理想のチームを作っていくために、スタッフを大事にする勉強をしましょう。
プライベートの過ごし方(開業後)
祝日も休みませんから、休日はほぼありません。長い休みも取れないので、ゴルフもできなくなってしまいました。アメリカでは住んでいたアパートメントのすぐ前にゴルフ場がありましたし、車で10分のところに大きなゴルフ場もありました。道具を借りてプレーして、昼食をとっても3,000円ぐらいでしたね。空いていますから、子どもも連れていけました。子どもはバンカーを「お砂場だ」と喜んでいましたよ(笑)。日本ではゴルフ場まで2時間かかり、そこで待たされてプレーして、また2時間かけて帰ってこなくてはいけません。しかもバブルの頃は4、5万円かかりました。それですっかり止めてしまい、ゴルフバッグも人にあげました。
最近の趣味は囲碁や将棋ですね。また、スポーツジムで週に2回、健康づくりをしています。比較的、時間に余裕がある木曜日を中心に、火曜日か土曜日に行き、筋肉をマシンで鍛えています。お蔭様で腰痛を予防できています。
タイムスケジュール
クリニック平面図
くろだ明大前クリニック | ||
院長 | 黒田 重臣 | |
住所 | 〒156-0043 東京都世田谷区松原2-17-33 新光ビル201号 |
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医療設備 | 透析ベッド、透析椅子、レントゲン、心電図、心電図と一体化した足の血行を測定する機械など。 | |
スタッフ | 8人(院長、非常勤医師1人、非常勤看護師4人、非常勤透析技師1人、常勤事務1人) | |
物件形態 | ビル診 | |
延べ面積 | 70坪 | |
敷地面積 | 70坪 | |
開業資金 | 約5,000万円 | |
外来患者/日の変遷 | 開業当初2~3人→3カ月後4~5人→6カ月後8~10人→現在30人 | |
URL | https://www.hospita.jp/detail/460/ |