高橋 健太郎院長は小豆島で生まれ、香川県の高校から信州大学医学部に進んだ。実家は醤油醸造業を営み、医業とは関わりない家庭で育ったが、祖父の姿に大きな影響を受ける。
「祖父が地方議員をやっていたのですが、当時島に病院がなかったため、誘致しようと熱心に活動していました。それを見ていたので、医者というのはそれだけ必要とされる仕事なんだというのがよくわかり、それから医者になろうと思いました。」
一方、高橋院長は小学校から高校まで野球に打ち込み、大学でも野球部に所属する。信州大学を選んだのは冬のスキーに惹かれてだという。スキーはインストラクターの資格も取るほどで、馬の八方尾根スキー場で教えていた時期もあったそうだ。
大学を卒業して研修期間中に診療科を選ぶ際、高橋院長は手術に興味があり、漠然と「外科系がいいな」と考えていた。
「すぐに自分で手術をしていきたいと思っていましたが、外科では人数が多くてなかなか新人が手術させてもらえる機会はないだろうと、耳鼻咽喉科を選びました。その目論見は当たって、大学病院の医師となってからは即戦力として、どんどん患者さんを診て手術もしました。耳鼻咽喉科は普通の人が考えるよりもずっとテリトリーが広く、脳外科の分野以外の頭部は全て、それに食道や甲状腺なども含まれるので、いろいろなことができるのです。」
開業までは大学病院の勤務医、クリニックでの勤務医、クリニックの院長に加え、留学も行うなど、様々な経験を積んでいる。大学病院時代には病院での診療のほかに研究も続けていたが、高橋院長はガンの遺伝子に興味があり、その研究のためにベルギーに留学した。
「残念ながら、探していた遺伝子までは究明できなかったのですが、そのときに研究したことは、いま開業医として患者さんを診るのにも役立っています。目の前の症状と直接つながっていなくても、そのような研究をバックボーンに持ちながら診療にあたれば、より広い視野で考えることができますからね。」
ベルギーから帰国後は東京の医療法人で3つの医院を回った。開業については、積極的に望んだわけではなかったが、2006年7月末に保険会社の営業マンにリンク医療総合研究所(以下リンク総研)を紹介されたことで状況が一変する。
「『どこかにいい物件ありますか』と尋ねたら、3つの物件の候補が出てきました。さらに『この中でどれが一番か』と聞いたら、『ここだ』との答えで、すぐに見に行き、即決しました。ですから物件を見たのはここだけなんですよ。」
リンク総研の担当者はこう回想する。
「『3つあるけれど、私ならここでやります』と答えましたら、高橋院長は急に真剣になって、3つの物件の情報を仔細に見始められました。即座に見学に行ったものの、当時、モール自体はまだ建設中だったので、オーナーの自宅へ伺って話しているうちにすっかり打ち解けてしまい、すぐに決断されたのです。開業といえば人生の上での大きな転換点ですが、高橋院長は短時間にきちんとポイントをつかんで決定する力があると、驚きました。その後のお付き合いの中で、いろいろなめぐり合わせがかみ合っていて運のいい方だとも感じましたが、それもご本人がとても努力家で、ナチュラルで飾らないお人柄だからこそ、自分で運を引き寄せてしまうのだと思いました。」
湘南寒川医療モールは2006年9月にオープンしたが、開業には最低でも半年はかかるため、患者さんが増える花粉の時期を前にした2月1日を開業日と決めた。
「物件を決めてから開業までは特に問題はありませんでした。内装の会社がのんびり、ゆったりとした社風なのか、完成したのが開業前日だったので少しハラハラしたぐらいですね(笑)。」
また開業資金については、高橋院長が早い段階で開業することを考えていたわけではなかったために潤沢な預貯金もなかった。
「ベントレーという車を買ってしまった直後だったんですよ。車を売って見せ金を作り、借入することをアドバイスされましたが、私としては買ったばかりの車を売りたくないですし、なんとか借りられるように頑張りました。でも、開業するならきちんと貯めておいた方がいいですよ(笑)。」
開業にあたって一番大変だったのは勤務先の病院を退職することだった。病院からは慰留もあり、患者さんにも退職をなかなか告げられなかったという。結局、12月30日まで勤務し、開業後も3月まで、休みの日には江戸川へ診療に通っていた。退職から開業まで1か月しかなかったため、病院の診察後や休日に設計士やインテリアデザイナーと打ち合わせをしたり、自宅の引越しも済ませた。「開業準備をしている頃に、茅ヶ崎でペットショップをやっている知り合いからネコをもらったりして、この地への縁を感じました。」 |