辻ゆかり院長は沖縄県那覇市で生まれ育った。医師を目指したきっかけは中学生の頃に読んだ「ブラックジャック」だったという。
「ブラックジャック本人もさることながら、ブラッククイーンという女性外科医に憧れましたね。何ともかっこよかったです。全巻揃えて、セリフも覚えてしまうほど熟読しました。」
琉球大学医学部に入学し、当然のように外科医を目指したが、「女性が外科に入局するのはきつい」と周囲から助言を受け、専門科の選択に頭を悩ませるようになった。
「しかしながら、やはりメスを持つ科の医師がいいと改めて思いましたね。外科への入局が叶わないのであれば、整形外科なども視野に入れて考えてみようと、当時まだ珍しかったスーパーローテートでの研修を行っていた病院を探しました。」
辻院長は大学の持つ閉鎖的な雰囲気や教授を中心とした上意下達の人間関係には違和感があったという。当時の大学では研修開始時には専門科が決まっているストレート形式での研修だったが、沖縄協同病院では3年間に渡るスーパーローテートを行っていたため、研修しながら、じっくり時間をかけて専門科を選ぶことにした。この間、救急から老人病棟まで経験し、内科、外科、整形外科、小児科、麻酔科、脳神経外科を回った。最後に行ったのが産婦人科で、ここで専門科が決定する。
「産婦人科であれば、メスを持った手術もできますし、ホルモンなど内科的な疾患も多いです。そういった幅広さに惹かれました。なにより患者さんが女性ですから、女性である私が女性の患者さんを診ることに意義を感じましたね。」
辻院長は産婦人科の魅力を「科学で割り切ることができない神秘的なところがあること」だと語るが、それが東洋医学への興味の原点だろう。ただ産婦人科の場合は産科と婦人科の領域に分かれるが、辻院長はがん患者との触れ合いから徐々に婦人科へと軸足を移していった。
「がんで亡くなる方は本当にいい方が多いんです。いい人に限って、若くして亡くなっていくことが寂しかったですね。産婦人科病棟には、そういう亡くなる方もいれば、出産で『おめでとう』と言われる方もいるという両極端があります。私はがんになる前に検診や予防を行っていくことが重要だという情報を発信していきたいと強く思うようになりました。」
そこで婦人科領域での疾患の症例数を増やすために、長年住み慣れた沖縄を離れ、大阪府堺市の耳原総合病院に勤務することになった。そして沖縄協同病院に一旦戻り、1998年に再び耳原総合病院に勤めたが、その後、結婚、出産と転機が訪れる。
「2000年に子宮内膜症になり、手術を受けました。専門医であり、毎年検診を行っていた私が子宮内膜症を患ったことはショックでしたが、私であっても病気になるのだから、一般の方へさらに検診の重要性を訴えていかなくてはいけないと思いました。手術したことで妊娠しやすくなったのか、2001年、2002年と続けて出産したんです。ところが、産休などで周囲に大きな迷惑をかけてしまいましたし、私も体力的に限界でしたので転科か開業を考えるようになっていきました。」
辻院長は転科先の候補として美容の分野を挙げ、非常勤で美容外科などに勤務する。そこで、いわゆる「雇われ院長」のオファーも得たが、自分の好きな医療を十全に行える環境ではなく、転科するには至らなかった。そこで、もう一つの選択肢であった開業を本格的に考え始めたという。開業であれば、辻院長の理想とする医療が行える。それは西洋医学の型にはまった医療ではなく、オーダーメイドの医療であった。非科学的と言われる分野であっても、患者さんの身体を治すために必要なことを取り入れた統合医療を目指そうと決心する。
「2003年の秋頃から、場所探しなどを始めました。阪神間に住む予定でしたので、開業地も大阪か神戸にしようと考えました。でも人が大勢いる梅田はどうしても好きになれなかったんです(笑)。一方で神戸は海に近く、三宮の人々の賑わいも程々で好感が持てました。そこで神戸のビルを中心に見て回ったところ、こちらの物件に出会い、決定しました。」
辻院長が入居を決めた理由は、ビルの審査基準が厳しく、消費者金融や雀荘などが入居できないという点だったという。女性患者がほとんどを占めるクリニックではそうした配慮が必要であろう。現在もビル内のクリニックはゆかりレディースクリニックだけであるが、税理士事務所などが入居し、上品なビルである。
内装は数多くのクリニックを手掛けてきたセブンスターデザインのハマダシンヤ氏に依頼した。女性が安心して受診できるような空間となり、各エリアの照度にも工夫が見られる。
「クリニックらしからぬ暖かな空間にしたかったんです。ただ実際に開業してから、車椅子が通行できるドアに換えたり、待合室の患者さんの様子がよく分かるようにレイアウトを変更したりという調整を行ってきました。」
スタッフに関しては、求人誌やハローワークなどで募集を行い、苦労せずに集めることができたという。
「開業当初は患者さんの数も少なく、1人もいらっしゃらない日もあったんです。ですからスタッフも受付3人に看護師1人ぐらいの体制でしたよ。看護師すらいない時期もありましたから(笑)。」
また辻院長のご主人である辻茂氏も事務長として、クリニックのマネージメントを行うことになった。辻事務長も「楽しく勉強した日々でしたよ」と今では開業当初の日々を懐かしく振り返るが、弁護士、税理士、社労士といった専門家のもとへ足を運び、労働基準法や雇用に関する勉強を続けたという。
さらに辻院長は性同一性障害なども学び、開業医として幅広い知識を得る努力を重ねたが、「勉強に関しては、開業後の方が大変です」と話す。 |
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