島本長青院長は高校卒業までを滋賀県で過ごした。身内に医療関係者が多く、物心ついた頃から周囲の環境に自然と影響を受け、将来は医師になるものだと思っていたそうだ。
「そういう環境の中にいると見るもの、聞くもの、感じることに自然と興味が湧いてくるんです。医師以外の職業を考えたことはなかったですね。」
高校時代に医学部に進学する意思を周囲に話したところ、「女医で産婦人科の先生がいるといいよね」という意見が多かった。それで専攻は産婦人科だと漠然と思ったが、大学に入学してみると、産婦人科はきつい科目という印象が強くなり、人気のある眼科や麻酔科なども考え始めた。しかし、きっかけは大学4年次に参加したOJTにあった。最初の科目が産婦人科だったのだ。そこで出産の場に立ち会った感動が忘れられなかったという。そして初めて目の当たりにした医療の現場も新鮮に感じた。
島本院長は産婦人科の魅力を「一言で言うと、明るい」と語る。生まれてきた赤ちゃんを見ると、パワーをもらえるそうだ。
「体力的にきついときでも、深夜のお産の現場に立ち会うときでも、生まれてきた赤ちゃんの元気な鳴き声を聞くと、全てが報われた、頑張っていけると前向きになれるんですよ。」
卒業後は宮崎大学医学部附属病院に勤務する。島本院長は産婦人科の魅力ややりがいを見つけつつも、大学特有の閉鎖的な雰囲気や教授を中心とした上意下達の人間関係に違和感を持ち始めた。
「医師としての確かな技術を身につけたいという目標に対して、3カ月から4カ月のローテーション勤務では一人の患者さんの全体図の把握は困難です。処置一つをとっても、それぞれの派遣先での流儀が身につきかけたときに異動になってしまうので、医師としての自分の将来像に不安を感じました。」
そこで、北海道函館市の秋山記念病院へ自ら立候補して異動した。当時の医局人事ではありえないことだったそうだ。学生時代に研修に行った縁で、秋山院長とは面識があり、直接話をして、熱意を訴えた。秋山記念病院には3年間勤務し、医師として必要な技術と心構えを学んだという。島本院長はこの頃から漠然と開業のイメージを抱くことになる。
「大学病院に勤めていたときはずっと勤務医として過ごしていくんだと思っていました。女性ですし、自分が開業するというイメージが湧かなかったんですね。秋山記念病院は個人病院でありながら、大学病院並にハイレベルな診療をしていまして、そういった部分に憧れを持っていました。そういう医療をしていける人間でありたいと思ったことがきっかけの一つですね。」
函館には身内がいなかったため、生活の場としての支障を来たし、島本院長は上京を決意する。曜日を分けて、4箇所の病医院に非常勤として勤務しながら、開業の準備を進めた。実際に開業をする3年前のことだ。
物件選びは都心でレディースクリニックを開院するという構想で、神奈川県か東京都内に絞ったが、非常勤で勤めていた医院で知り合ったMRからの紹介で、最終的には銀座に決めた。街のイメージが決め手になったという。医療モールのテナントで、既に何軒かのクリニックが入居しており、患者さんの層や流れが分かりやすいということも、ここに決定した理由の一つであった。
「イメージはぴったりだったのですが、やはり競合が非常に多くて不安でした。首都圏の大学病院にも知り合いはいませんでしたしね。でも心配していた以上に患者様も多かったのです。診療圏調査の資料をコンサルタントから頂きましたが、あまり参考にしませんでした。西新宿レディースクリニックに勤めていたときに、自分なりに患者様の住所などのデータをとっていたのですが、いろいろな地域から来院していたのです。地域密着を目指して郊外のベッドタウンで開業するのであれば、診療圏の何キロ範囲とか住民構成などは必要なデータなのでしょうが、都心ではあまり影響がないようですね。働く女性が仕事帰りに寄れたり、休憩時間中に診療に通える条件を考えたら、この地が最適だったのかなと思っています。」
島本院長は女性らしさ、銀座の街並みにマッチしたエレガントな内装にこだわった。
「医療モールの3階に各テナントの総合受付がありますので、実際にクリニックの待合に患者様をお呼びするときにはすぐに診察ができるんです。ですから待合というよりは中待合のイメージになっています。」
設備や機器は必要以上のものは置かず、超音波のみと言っても過言ではない。しかしコルポスコピーなどの機器も少しずつ揃えていく予定である。
「患者様のニーズに合わせてステップアップしていきたかったですし、マスコミなどに取り上げられているような競合医院がひしめく中で、最初からどこまで大きく手を広げていけばよいのか分からなかったこともあります。経営者の責任として、スタッフを養っていくためにも躓くわけにはいきませんでしたからね。」
スタッフの募集については、島本院長が以前勤めていたクリニックの看護師に連絡を取ったところ、偶然にもフリーの状態だった。他のスタッフも特に告知を行うこともなく、スムーズに決まったという。
「開業後もスタッフが新しいスタッフを紹介してくれるなど、人と人の結びつきや縁で勤めてくれているスタッフがほとんどです。オープニングスタッフが一回入れ替わってしまうケースもよく耳にはしますが、当院ではほとんどありません。入れ替わりといえば、アルバイトの学生が卒業を機に退職するぐらいで、クリニック内でのトラブルはありません。チームワークもばっちりですが、スタッフとは一定の距離感は保つようにしています。言い方は悪いですが、なあなあの関係では経営が成り立ちませんし、いい緊張感の中で運営しています。」
開業届を2006年10月15日に提出し、実際には2007年1月10日にオープンした。テナントビルの方ではホームページ内での告知やビラ配りなどを行ったが、せいこレディースクリニック銀座では看板を出すこともなく、内覧会も行わなかった。オープン日の来院患者数は2名だったという。
「初日の患者様の人数に焦りはしましたが、私は何とかやっていけるのではないかと思っていました。なぜなら銀座にはたくさんのクリニックはありますが、自費診療が多い割に土日診療を行っているクリニックは非常に少ないのです。開業戦略ではいかに目立つのかという観点が必要です。私どもでは土日診療や保険診療を強調することで差別化を図ることができるのではないかと考えました。増患対策としてはテナントビルのホームページを活用したぐらいですね。」
開院当初は一桁の来院患者数が続いたが、開院から約2週間が過ぎた土曜日には予約票が埋まっていたという。
「また今日も患者様が少ないのかなと、朝少し暗い気持ちで出勤したのですが、予約票を見たら、涙が出るほど嬉しくなりました。増患対策として宣伝広告費の出費を増やすことなども考えたのですが、開業当初の方針からぶれることなく運営を行ったことがよかったのではないでしょうか。それからは順調です。」 |