プロフィール
富山協立病院
富山市は富山県の県庁所在地であり、国から中核市の指定を受けている都市である。一方で、環境モデル都市の選定を受けてコンパクトシティを目指した都市計画を進めている。富山市の地形は変化に富んでおり、水深約3000mの富山深海長谷から標高2986mの水晶岳に至るまで、多彩な動植物が生息し、ホタルイカや雷鳥などが観光資源化されている。
富山協立病院は1950年からの歴史を持つ病院である。「いつでも安心してかかれる病院」を掲げ、消化器、循環器、呼吸器などの内科、整形外科、皮膚科、耳鼻咽喉科、泌尿器科の一般診療科に加え、老年内科外来、糖尿病、高血圧、漢方外来の専門外来を設置している。
開院当初から定期往診や臨時往診などの訪問診療や訪問リハビリにも力を入れ、患者さんの在宅療養を支えている。また、富山医療生協の医療と介護のネットワークで、訪問看護、ヘルパー派遣、デイサービス、ショートステイなどのサービスと連携している。
今回は富山協立病院の与島明美院長にお話を伺った。
与島 明美 院長 プロフィール
富山県富山市で生まれる。1983年に富山医科薬科大学(現 富山大学)を卒業し、豊田病院(現 富山協立病院)に勤務する。1987年に富山協立病院内科部長に就任を経て、1993年に富山協立病院副院長に就任する。2005年に富山協立病院院長に就任する。日本内科学会専門医、日本老年医学会専門医・指導医など。
病院の沿革
富山協立病院の前身は労農救援会による歯科診療所であり、1950年に開設された。1951年に国民救援会の富山国民診療所に改名される。
1956年に富山医療生活組合・富山診療所に、1962年に富山医療生活協同組合に改組される。翌年には日本生協医療部会が結成されるが、富山医療生活協同組合はこの結成と同時に参加する。1965年に富山診療所の新築移転を行った。
そして、1975年に豊田病院が24床で開設され、78年には60床に増床される。その後、検診車を購入し、検診業務が本格化する。1983年は豊田病院が128床に増床した年であるが、この年に入職したのが与島院長である。
「私は富山医科薬科大学の2期生で、自由な研修制度の時代でしたが、大学の医局には全く所属せずに、卒業後すぐに病院に入職しました。もともと茅ヶ崎市の病院に入職することが決まっていたのですが、急遽、豊田病院に変更したんです。理由は豊田病院からの強い誘いがあったからです。担当者の方と同期の男性医師の熱意に負け、義理人情で入職しました(笑)。男性医師、女性医師それぞれ2人ずつ、計4人で研修を開始しましたが、増床したばかりでしたので、医局の引っ越しが最初の仕事でしたね。」
与島院長は当時では珍しいローテート型の研修を行った。
「内科の研修では呼吸器、心臓、脳、リハビリなど、科目に関係なく全てを学びました。当時は喘息で亡くなる方も多く、良い薬もない時代です。喘息発作の患者さんには夜な夜な起こされましたよ。その頃は女性医師が少なかったので、私は医師と認めてもらえず、患者さんから医師を呼んでくれと言われたこともありました。外科の研修では虫垂炎の手術を経験したほか、第二助手や麻酔を担当しました。小さな病院でしたが、色々なことを学び、色々な専門へと広げていきました。とても幸せな時代でしたね。」
1987年には豊田病院が190床に増床し、富山協立病院に改名となる。同時に社会医学センターを設立し、検診部門を確立させた。
「病床が増え、富山協立病院に改名してから医師数も増え、活気もあふれ、全てが右肩上がりに上昇しましたね。様々な分野に拡大、発展していきました。私個人は1990年に出産したのですが、子どもを院内にあるこばと保育園に預け、家族の協力を得て、医療活動を継続していきました。」
1992年に富山協立病院東別館が完成し、腎・透析センターが開設する。
「当時、やむなく緊急に血液透析をしなければならない事態になり、石川県の城北病院から透析の機械をお借りしたんです。それまでは腹膜透析のみでしたが、これを機に血液透析を始めました。」
1995年にはデイケアを開始した。1996年に西館のリニューアルを行い、ヘリカルCTやMRIを導入した。この頃から高齢者医療の必要性が出てきたので、老人保健施設レインボー、特別養護老人ホームしらいわ苑を開設し、高齢者施設の医療にも関わっていく。
「医療の状況は大きく変化しました。今、迎えている高齢社会ではさらに大きな困難を抱えています。その中で患者さんを丸ごと診ていくことができ、これからの日本の医療や福祉のあり方にも目を向けていくことができる広い視野を持つことが求められています。これからも当院は地域の方々の生命と暮らしを守り、健康を育んでいきたいと願っています。」