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神田駿河台で130余年、
地域とともに杏雲堂病院
プロフィール
杏雲堂病院(東京都千代田区)
東京都千代田区神田駿河台は神田川を挟んで、文京区の本郷や湯島と境を接する。その神田川にはお茶の水橋や聖橋が架かっており、多くの交通量がある。地名の由来は徳川家康の死後、江戸幕府が駿府の役人を住まわせたことにある。現在はオフィス街であるが、明治大学、日本大学、中央大学駿河台記念館などが点在し、学生街にもなっている。
杏雲堂病院は1882年に設立された、長い歴史を持つ病院である。初代院長である佐々木東洋が策定した「医学の進歩に寄与し、医業をもって社会に貢献する」という理念のもとに内科・リウマチ科、糖尿病内科、消化器内科、肝臓内科、循環器内科、腫瘍内科、呼吸器内科、消化器外科、婦人科、乳腺外科、呼吸器外科、整形外科、形成外科、皮膚科、放射線科、リハビリテーション科、病理診断科、麻酔科を標榜し、地域包括ケア病床44床を含む199床を有している。
今回は杏雲堂病院の中村俊夫院長にお話を伺った。
中村 俊夫 院長 プロフィール
1941年に栃木県宇都宮市で生まれ、宮城県仙台市で育つ。1966年に東北大学を卒業する。1971年に東北大学大学院医学研究科を修了する。1971年に東北大学医学部附属病院医員、1973年に東北大学医学部第一内科助手に就任する。1975年に東海大学医学部生理学教室助教授に就任する。1985年に東海大学医学部第一内科助教授に就任する。1988年に聖マリアンナ医科大学第一内科助教授に就任し、横浜市西部病院呼吸器内科副部長を兼任する。1996年に聖マリアンナ医科大学総合診療医学講座主任教授に就任し、横浜市西部病院副院長を兼任する。1999年に聖マリアンナ医科大学内科学講座(総合診療内科部門)教授に就任する。 2006年に聖マリアンナ医科大学を定年退職し、青葉さわい病院に院長として着任する。2008年に新横浜介護老人保険施設カメリアに施設長として着任する。2014年に公益財団法人佐々木研究所理事に就任する。2016年に公益財団法人佐々木研究所副理事長に就任を経て、2016年に公益財団法人佐々木研究所理事長兼附属杏雲堂病院院長に就任する。
日本呼吸器内科学会専門医など。日本内科学会、日本呼吸器学会、日本老年医学会、日本化学療法学会にも所属する。聖マリアンナ医科大学客員教授、神奈川県国民健康保険団体連合会介護給付費審査委員会委員、日本医療機能評価機構サーベイヤー、元日本プライマリ・ケア連合学会誌編集委員長、元Journal of General and Family Medicine編集委員長など。1979年度日本生体医工学会論文賞受賞など。
病院の沿革
- 1882年
- 佐々木東洋が杏雲堂医院を創立する。
- 1896年
- 結核療養所(杏雲堂平塚分院)を設立する。
- 1923年
- 関東大震災で杏雲堂医院が全焼し、平塚分院が倒壊する。
- 1929年
- 杏雲堂医院の本建築が落成する。
- 1937年
- 平塚分院の新病棟が落成する。
- 1938年
- 佐々木研究所の本建築が落成する。
- 1939年
- 財団法人佐々木研究所を設立する。
- 1941年
- 杏雲堂医院を佐々木研究所附属杏雲堂医院に改称する。
- 1942年
- 杏雲堂平塚分院を佐々木研究所附属杏雲堂療養所に改称する。
- 1957年
- 杏雲堂医院を杏雲堂病院に改称する。
- 1959年
- 杏雲堂療養所を杏雲堂分院に改称する。
- 1966年
- 杏雲堂分院を杏雲堂平塚病院に改称する。
- 1981年
- 杏雲堂創立百周年祝賀記念会を開催する。
- 1988年
- 杏雲堂病院新病院が完成する。(208床)
- 1990年
- 佐々木研究所新研究所が完成する。
- 2012年
- 杏雲堂病院が創立130周年を迎える。
- 2012年
- 佐々木研究所が財団法人から公益財団法人へ移行する。
- 2014年
- 地域包括ケア病棟を開設する。
杏雲堂病院の前身である杏雲堂醫院は1882年(明治15年)6月1日、佐々木東洋により、「医学の進歩に寄与し、医業をもって社会に貢献する」という理念のもとに創立された。場所は現在地から明大通りを挟んだ山の上ホテルのあたりであったという。
「杏雲堂病院の名前は『中国のある名医が治療費をとらず、代わりに杏の木を軽症のものには1株、重症のものには5株植えさせ、それが大きな杏の林となった』という、中国の『神仙伝』に書かれた故事に由来します。これに感銘を受けた佐々木東洋は自分もこのような名医でありたいと願いを込めて、名付けたのです。」
佐々木東洋は東京大学医学部の前身である大学東校や杏雲堂醫院などで、特に脚気の診断、治療を行ったほか、多くの人材を育成した。
「夏目漱石の随筆に佐々木東洋のことが『「佐々木東洋と云ふ醫者があります。此醫者が大へんな變人で、患者をまるで玩具か人形の様に扱ふ、愛嬌のない人です。夫ではやらないかと云へば不思議な程はやって、門前市をなす有様です。あんな無愛想な人があれ丈はやるのは矢張り技術があるからだと思ひました』と出ています(笑)。佐々木東洋は打診が得意だったのです。打診・聴診の医書としては日本初の『診法要略』を出版しています。エコーのない時代ですから、名医と呼ばれたんでしょうね。また、佐々木東洋が立派な点は、収益の三割を慈善に用いると宣言し、まさに「医は仁術」なりを実践したことです。」
第2代の佐々木政吉は東京帝国大学医科大学教授の日本人教授第1号として知られる。
大学教授を辞任後は杏雲堂醫院での診療に専念し、結核の名医として名声を博した。1896年には結核療養所である杏雲堂平塚病院(分院)を設立した。
1896年には結核療養所である杏雲堂平塚病院(分院)を設立した。
第3代の佐々木隆興はドイツに5年間の遊学後、京都帝国大学医学部教授を経て、杏雲堂醫院院長となり、内科医として活躍する。一方で、関東大震災で消失した病院と研究所の本建築を再興した。1939年には杏雲堂醫院、杏雲堂平塚病院などに私財のほとんど全てを寄付し、財団法人佐々木研究所を設立した。
佐々木隆興は臨床医学だけでなく、基礎医学研究で多くの学術的業績を上げたが、中でも佐々木研究所の吉田富三所長とともに行ったアゾ色素によるラット肝がん発生の実験は日本が世界に誇る研究成果となっている。これらの研究業績により、佐々木隆興は帝国学士院恩賜賞と文化勲章を受章している。
また、吉田富三は世界的に有名な吉田肉腫を発見し、がん研究の発展に大きな貢献し、学士院恩賜賞と文化勲章を受章した。
「佐々木隆興は戦前に何回もノーベル賞の候補にノミネートされたそうです。佐々木隆興と吉田富三は学士院恩賜賞を受章していますが、生涯で二度の受章を果たした人はこの二人しかいないそうです。吉田富三は人為的にがんを作ることに成功しましたが、佐々木研究所のがん研究の伝統はこのようにして始まり、がんに興味がある医師が集まってきたのです。」
その後、名称が杏雲堂病院に変更となる。1988年に現在の場所に近代的な新病院が落成し、患者さんが満足できる環境と最新設備を整った。
「第9代の佐々木智也院長のときです。佐々木智也は東京大学の物療内科出身でした。それで、当院もリハビリテーション科やリウマチ科に力を入れています。」
2012年には杏雲堂病院が創立130周年を迎え、同時に財団は「公益財団法人佐々木研究所」として認定移行した。杏雲堂病院は「神田駿河台で130余年、地域とともに杏雲堂病院」、「このがんなら杏雲堂」、「わたくし達は、がんを中心とした医療で皆さまのお力になりたいと願っております」をモットーとして、ソフトとハードの両面からの発展を目指している。
「2014年には地域包括ケア病棟を設立しました。近隣の急性期病院との連携を密にして、患者さんのご紹介を積極的にお受けしています。これからも皆様方から信頼される病院として頑張っていきます。」