プロフィール
聖霊病院
愛知県名古屋市昭和区は名古屋市の中心部に近く、名古屋大学医学部や名古屋工業大学、南山大学などの大学が建ち並ぶ文教地区となっている。興正寺公園などの自然環境に恵まれる一方で、名古屋市営地下鉄鶴舞線、桜通線が区を貫通するなど、利便性の高いエリアである。
聖霊病院は戦後間もない1945年10月に東海地区唯一のカトリック診療所として設立された病院である。「愛と奉仕」を理念に、現在は17診療科、198床を有している。NICU、GCUを完備した周産期医療は特に知られており、「命の始まりから終わりまでを安心・安全に診る、そして看る」ことを目的としている。
今回は聖霊病院の森下剛久院長にお話を伺った。
森下 剛久(よしひさ)院長 プロフィール
1951年に愛知県常滑市で生まれる。1975年に名古屋大学を卒業後、愛知県厚生農業組合連合会(厚生連)昭和病院で研修を行う。名古屋大学第一内科に入局し血液内科学を専攻する。1984年に米国ワシントン州Fred
Hutchinson Cancer Research
Centerに留学し造血細胞移植を学び免疫学の基礎研究に携わる。帰国後1988年に医学博士を取得する。1990年に愛知県厚生連昭和病院(現江南厚生病院)に、血液化学療法科部長として赴任し、2008年、同院副院長と血液細胞療法センター長を兼任する。2015年に社会福祉法人聖霊会聖霊病院に院長として着任する。
日本血液学会専門医・指導医、日本感染症学会ICD認定医、日本内科学会認定医。日本造血細胞移植学会、日本臨床腫瘍学会、日本輸血・細胞治療学会にも所属する。
病院の沿革
- 1945年
- 聖霊診療所を名古屋市昭和区に開設
- 1947年
- 宗教法人聖霊病院開設(30床)
- 1952年
- 社会福祉法人聖霊会に組織変更
- 1968年
- 病院本館新築(300床)
- 1987年
- 新生児特定集中治療管理施設(NICU)認可
- 1991年
- 関連施設として老人保健施設サンタマリア開設(60床)(1998年100床)
- 2005年
- 病院新改築事業起工
- 2009年
- 新病院グランドオープン(285床)
- 2014年
- 地域周産期母子センター開始
地域包括ケア病棟(34床)開始 - 2015年
- 大腿骨近位部骨折センター開設
- 2016年
- 収容定員変更(198床)
- 2018年
- 院内保育所開設
森下院長に設立の背景を伺った。
「設立は1945年で、戦後の動乱期です。現在地から1キロほど離れたところに最初の診療所、聖霊診療所ができました。修道会の組織の一つである聖霊会が設立した宗教法人で、医師は2人だけで、シスターが4人いました。当時は身体的疾患を抱えた人だけではなく、社会的困窮者が多い状況で、ホスピス的な場所でもあったようです。このあたりはもともと国有地だったそうで、住宅もほとんどなく、山の中だったみたいです。現在も東海エリア唯一のカトリックの病院です。」
沿革の中でエポックとなったことも伺った。
「比較的最近の出来事として3つ挙げられます。2005年から始まった病院改築、完成した2009年のホスピス聖霊15床オープン、2014年から2015年にかけての内科医激減事件です。当院は複数回新改築をしていますが、1947年の改築を1回目とすると、2回目の改築をした1968年からの約30年間は出産数や受療率が右肩上がりで、病院がピークを迎えた時代だったと思います。当院は当初から周産期に力を入れていたので、この時期に「お産の聖霊」として地域に名を馳せました。2005年からの新改築では傾斜地のスクラップ・ビルトということもあり、巨額な投資を必要とし、オープンまで5年間という時間が経ってしまいました。その間に医療を取り巻く環境が厳しさを増したと同時に、長い工事期間の間に入院ができない、外来が縮小している状況で患者さんが離れてしまったのです。経営的に厳しくなったという負の意味でのエポックでした。」
次のエポックはホスピス聖霊の開業だ。
「ホスピス聖霊はポジティブなエポックですね。カトリックの病院ですから、院内にホスピスを作ろうという構想は一貫してありました。その構想と医療との接合点を見つけて、形としてユニークなものを作ろうとしました。当院の緩和ケア病棟では宗教色をある程度感じることができます。付属のチャペルがありパストラルケアも行われています。一般的な緩和ケア病棟は終末期に苦痛を除去するために入るものですが、当初はがんの苦痛がなくても、心のケアあるいはシェルター的意味合いで長期間入院される方もいたようです。シスターやボランティアの方々が協力して作り上げたもので、ホスピスの考えを反映させた形でもありました。」
内科医の激減とはどういう事態だったのだろうか。
「2014年から2015年にかけて、内科医が1人になった時期がありました。最大で13人いた内科医が徐々に減って遂に1人になったわけですから、病院が終わりかかったようなものです。そこまで激減した理由は様々です。個人的な事由の他に大学医局との関係、病院の経営方針との齟齬等ですね。でも、それは生まれ変わるきっかけになりました。ピンチをチャンスに変える好機でもありました。その頃にちょうど、私が来ました。転機を与えた意味ではそれなりに重要なポイントだったと言えるでしょう。」