沿革
- 1947年
- 西淀川労働会館付属「西淀病院」を開設する。
- 1949年
- 柏花健康を守る会を結成し、柏花診療所を開所する
- 1950年
- 柏花健康を守る会が姫島診療所を開所する。
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- ジェーン台風により、イカダに乗って避難者救援の往診をする。
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- 加島病院を開設する。
- 1954年
- 姫島診療所が姫島病院に発展する。
- 1959年
- 伊勢湾台風被災地に救護医療班を派遣する。
- 1960年
~1961年 - 大阪市国民健康保険創設の運動を行う。小児麻痺撲滅の戦いを行う。
- 1961年
~1962年 - 各院所で大阪大学微生物病研究所の流感生ワクチン接種に協力する。
- 1962年
- 田中電機公害の反対運動を行う。
- 1964年
- 西淀労働会館ならびに西淀病院の増改築を行う。
- 1967年
- 西淀病院でむちうち損傷に取り組む。
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- 高齢化社会を控え、老人健診を開始する。
- 1968年
- 淀川准看護学院を開校する。
- 1969年
- 千北病院を開設する。
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- 老人医療費無料化運動を行う。
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- 西淀川公害指定地域となる。
- 1971年
- 革新系の黒田了一府知事が誕生する。
- 1972年
- 大阪府で70歳以上の老人医療費無料化を実施する。
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- 加島病院を閉鎖し、診療所化する。
- 1973年
- 竹島診療所を開所する。
- 1975年
- 新日本婦人の会西淀川支部と共同し、婦人健診を開始する。
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- 喘息児サマーキャンプを開始する。
- 1976年
- 淀協長期計画第一次5カ年計画を発表する。
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- 姫島病院と西淀病院に労働衛生コンサルタントを開設する。
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- 職場保育所を開所する。
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- 淀協共済組合を設立する。
- 1977年
- NGO主催の「国際シンポジウム」に向け、被爆者調査を開始する。
- 1978年
- 工業専用地域指定反対の運動を行う。
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- 西淀川公害患者と家族の会の公害訴訟が始まる。
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- 西淀病院、姫島病院が被爆者医療認定指定医療機関となる。
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- 竹島診療所を新築移転する。
- 1979年
- 二酸化炭素測定運動として、区内700カ所にカプセルを設置する。
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- 新西淀病院を開設する。(156床、特II類基準看護、全館空気清浄システムの導入)
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- 社会医学研究所を開設する。
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- 姫島、千北、御幣島を診療所にし、1病院5診療所1研究所の体制となる。
- 1980年
- 御幣島診療所を新築開所する。
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- 社医研「職業病認定の手びき」を発行する。
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- 作業環境測定機関に登録する。
- 1981年
- 第1回西淀病院友の会まつりを開催し、各診療所でも開催する。
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- 社医研が健康診断機関等名簿に登載される。
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- 外科病棟を開設する。
- 1982年
- 姫島診療所の竣工式を行う。
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- 総合医療室が発足する。
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- CT/アンギオを導入する。
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- 国連軍縮総会に林医師、松田看護婦を派遣する。
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- 社医研の田尻所長ほかが『過労死』を出版する。
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- 西淀川区の公害病による死亡者が認定患者の1割を超す。
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- 公害死亡者合同追悼会を開催する。
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- 老人保健法が改悪される。
- 1983年
- 外科専用病棟を開設する。(194床)
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- 糖尿病教育入院を開始する。
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- 岸昌府知事が公約を破り、老人医療費の有料化を実施する。
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- 泉州高等看護学校I科が開設され、西淀病院が実習病院となる。
- 1984年
- 救急病棟開設と在宅医療の展開を目指す「中期計画」を発表する。
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- 泌尿器科を開設する。
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- 西淀川区公害患者471人が第二次訴訟を行う。
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- 本人1割負担を含む健康保険法の改悪案が成立する。
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- 柏花診療所に障害児(者)保健・生活相談所を開設する。
- 1985年
- 友の会主催第1期保健大学を開講する。
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- lCU5床を含む救急病棟を開設する。(215床)
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- 第1回淀協友の会の総会を開催する。
- 1986年
- 高校生一日看護婦体験を開始する。
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- 姫島で第1回反核・平和フェスティバルを開催する。
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- 6病棟をオープンし、235床に増床する。
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- 参議院本会議で老人保健法改悪案が可決、成立する。
- 1987年
- 非核病院宣言を行う。
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- 第二次老人医療費が再改悪される。
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- 淀協創立40周年記念祝賀会を開催する。
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- 淀川准看護学院、歴史的任務を終え閉校する。
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- 第1回成人喘息サマーキャンプを開始する。
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- 第1回淀協看護婦集会を開催する。
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- 救急告示病院の指定を受ける。
- 1988年
- 淀協第二次長期総合計画(案)を発表する。
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- 基準看護特III類を取得する。
- 1989年
- 婦人科を開設する。
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- 公害指定地域を解除される。
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- 看護婦確保全職員集会を開催する。
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- 作業療法施設基準の認可を受ける。
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- オーダーシステムを稼働する。
- 1990年
- 千北診療所に在宅酸素療法患者会を結成する。
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- 第1回職員参加の患者訪問活動を開始する。
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- 院外処方箋の発行を開始する。
- 1991年
- 西淀川公害訴訟に勝利する。
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- 婦人科を常勤化し、手術を開始する。
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- 夕食を18時に提供し、適時給食を行う。
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- 西淀在宅医療を開始する。
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- 投薬施設基準の認可を受ける。
- 1993年
- 姫島診療所でデイケアを開始する。
- 1994年
- 健康保険法の改悪が実施され、給食保険が外される。
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- 訪問看護ステーション「コスモス」が発足する。
- 1995年
- 阪神大震災、淀協が東神戸病院へいち早く支援に入る。
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- 淀協第三次長期計画(案)を発表する。
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- 千北診療所を新築開所する。
- 1996年
- 外来予約センターを開設する。
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- MRIを導入し、稼働が始まる。
- 1997年
- 訪問看護ステーション「きかわ」「ひめじま」を開設する。
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- 「緩和マニュアル」(初版)の記念発表会を開催する。
- 1998年
- 院内透析が東6階病棟で始まる。
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- 老健施設「よどの里」と姫島診療所を新築開所する。
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- 西淀川公害訴訟の和解が成立する。
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- 外来透析棟を増築し、外来血液浄化室を開設する。
- 2000年
- 介護保険制度が開始される。
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- 7カ所の居宅介護支援事業所を開設する。
- 2001年
- 療養病床(医療型60床)を開設する。
- 2002年
- ESWL(体外衝撃波腎・尿管結石、胆石粉砕術)を導入する。
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- ヘリカルCTを導入する。
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- のざと診療所を開所する。
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- 老人保健法が改訂され、定額制から定率性になる。
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- 御幣島診療所を閉所する。
- 2003年
- 在宅福祉総合センターみてじまを開設する。
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- 健康保険本人3割負担となる。
- 2005年
- 総合ステーションあいを開設する。
- 2006年
- ファミリークリニックなごみを開設する。
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- 回復期リハビリテーション病棟を開設する。
- 2007年
- デイサービスくつぬぎハウスを開設する。
- 2009年
- リニューアル工事が完成する。
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- デイサービス安住が旧竹島診療所に移転する。
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- 柏花診療所を閉所し、のざと診療所へ統合する。
- 2011年
- 東日本大震災に支援隊を派遣する。
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- 西淀病院、のざと・姫島・千北診療所で無料低額診療事業を開始する。
- 2014年
- 非営利型一般財団法人へ移行する。
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- 西淀病院がWHO・HPH認定を受ける。
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- 地域包括ケア病棟を開設する。
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- ファミリークリニックあいを開設する。
- 2016年
- 在宅総合センターらくらくを開設する。
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- 淀協全院所で無料低額診療事業を実施する。
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- HPHに全事業所が加盟する。
- 2017年
- 淀協70周年記念碑除幕式を開催する。
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- 韓国の緑色病院と姉妹病院になる。
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- 淀協訪問看護ステーションえがおを開設する。
- 2018年
- 大阪府から公益財団法人として認定される。
- 2020年
- 淀協と3つの医療法人が合同する。
西淀病院の開設は戦後間もない1947年に遡る。
「地域住民の『お金がなくても安心してかかれる、労働者のための病院を』という願いから設立されました。場所はもともと労働会館があったところを転用しました。初代院長の林喜彦先生は病院のそばに住み、地域の方々と生活をともにしていたそうです。」
1979年に現在地に移転し、155床となった。1986年には6病棟化したことで、235床に増床となる。大島副院長が入職したのは1990年である。
「当院に入職したのは親が民医連に関わりがあったからです。奨学金制度があったので、こちらを受けたらどうかということになりました。そして見学に行き、入職することになったんです。1990年頃は6病棟の体制で、いわゆるICU的な機能のある病棟もあり、全てが急性期の病院でした。」
西淀病院は2009年にリニューアル工事を行い、218床となったが、大島副院長はこれを病院の歴史のエポックになったと振り返る。
「それまでは6人部屋もあったのですが、そのときのリニューアル工事により、最大で4人部屋までにして、個室化も進めたので、アメニティは改善されました。当院に期待されている役割を考えていく議論の中で、病棟の構造も変わりました。当時はまだ地域包括ケアは始まっていませんでしたが、回復期リハビリテーション病棟や慢性期の患者さんを診るためのいわゆる療養型病棟、退院の調整をゆっくり行うための病棟、重症の治療があまり必要でない患者さんなどを診るための病棟を設置しました。それまでの当院は急性期の患者さんしか診ていなかったのですが、個室化になったことで、他院で治療された患者さんも診たり、在宅医療の患者さんや生活動作能力の低い患者さんも受け入れやすくなりました。急性期オンリーからケアミックス型という地域を意識した病棟の構造に変わったのは大きな転換点かなと思います。」
そのリニューアルを機に、求められる医師像も変わった。
「急性期病院ですと、医師は技術研修を受けて、技術を身につけていかないといけません。例えば、外科手術や心臓カテーテルといったものですね。当院でもそういった先生方が中心だったのですが、患者さんが多いところに出ていく形に変われば、心臓カテーテルのような高度技術ではなく、総合診療などの患者さんを全人的に診る医師が求められます。私自身も日本プライマリ・ケア連合学会の指導医資格を取得するなどをしてきました。その結果、この10年ぐらいで総合診療的な医師の割合が増えてきましたね。」
「また、多様性を当たり前とする気風が浸透し、女性・子育て医師も働きやすく、他の専門家からキャリアチェンジを目指す医師の受け入れも増えています。」
2014年にはWHOが開始したHPHの認定を受けた。HPHとはHealth Promoting Hospital and Health Servicesの頭文字であり、日本HPHネットワークの目的は患者さん、職員、地域住民の健康水準の向上を目指し、住民や地域社会、企業、NPO、自治体とともに、健康なまちづくり、幸福、公平、公正な社会の実現に貢献するところにある。
「もともと地域の方々にどう健康的な生活をしていただくのかを働きかけていかないといけないと考えていたところ、こういう取り組みがあると知りました。国際的に提唱されていることにコミットすることで、当院の目的も明確になり、年に1回の発表をするなど、病院としての意識づけが高まりやすくなってきたかと思います。」