ドクタープロフィール
ドクター神津
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2003年1月号 -【私が在宅医療を始めた切っ掛け】~Part Ⅱ~- backnumberへ
 開業をして最も困ったのが、地域の先生方の情報が足りないことだった。勤務していて、病院内にいると、だれがキーパーソンか容易に分かる。もちろん、研究論文の数と臨床の腕は比例しないことも、現場のスタッフの常識でもある。それに、自分の大切な患者さんのマネイジメントをしていただくのに、どの科の何先生を選ぶかということは、自らの臨床家としての評価に繋がるわけだから、まずもって地域の先生方の情報が必要だったわけである。

最初に、医師会という大きな組織にはその情報があるだろうと思って聞いてみたが、残念ながら当てが外れた。驚いたことに、平成5年当時、一般社会では当たり前のことだと思っていたのだが、データベースを作るためのコンピューターさえなかったのだ。事務員が「医師会にはワープロはありますが、コンピューターなんてありませんよ」と苦笑するのを覚えている。そうなると、自分でそのデータベースを作るほかない。当時同じような思いをしていた7-8人の若手医師が集まって、「世田谷区若手医師の会(Setagaya-ku Young Physicians Information Society=SYPIS)」を作ったのが平成6年の11月だった。お互いを知るのに、まず名簿作りから始めた。その名簿には、出身地、小学校から大学までの学歴、医師になってからの研修期間をどう過ごしたか、研究分野、獲得した専門医のタイトル、臨床の得意分野、家族構成、趣味、将来の夢など、知りたい・知らせたいことを自由に書いてもらった。勿論、部外秘として会の外には名簿の情報は出さないという紳士協定の元にだ。この名簿のおかげで、世田谷区にはとても有能な若い医師たちがそこかしこにいるということが分かった。そして、在宅医療のチーム医療も、外来診療のチーム医療も、こうした仲間の医師たちのおかげで可能になったといえる。現在の会員数は95名を数える。

こうして、在宅医療を行うための我々若手開業医側の準備が次第に整っていったのだが、いくつかの予想外の壁に突き当たることになった。それは、病院のスタッフが在宅医療についてほとんど知らない、ということだった。我々も大学病院にいる間は、頻繁に入退院する患者さんを忙しく診療している中で、患者さんたちが自宅でどんな風に生活しているかなど気にかけることはなかった。同じことがその当時の病院スタッフにもいえる事だった。しかも、我々若い開業医の医療レベルが理解されず、イコールパートナーと認識されなかった。実際には、少し前まで大学病院や総合病院の医長や部長として働いていた我々だから、地域の病院の若い主治医よりはよっぽど技術が上なのだが、開業医、というだけ、レベルが下だという扱いを受けた。そのために、病院から在宅主治医への情報提供はお座なりで、レントゲン一枚、退院サマリー一枚無い状況で大変な苦労をした。在宅での看取りについても、その崇高な理念は理解されず、患者さんや家族が最も望む「在宅死」も受け入れられなかったのだ。

(つづく)

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