ドクタープロフィール
ドクター神津
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2004年9月号 -神経難病- backnumberへ
 病初期より多大な介護を要し、進行性で次第にいろいろな身体機能が障害されて患者、家族の生活の質が(QOL)低下して大きな社会問題を生じる病気には神経疾患が多くあり、その結果「神経難病」と称されている。筋萎縮性側索硬化症がその代表的な疾患であるが、その他に、脊髄小脳変性症、シャイ・ドレーガー症候群、パーキンソン病およびその類似疾患、ハンチントン舞踏病、多発性硬化症、多発性筋炎・皮膚筋炎、重症筋無力症、進行性筋ジストロフィー症、プリオン病(クルイツフェルド・ヤコブ病、ゲルストマン・ストロイスラー・シャインカー病、致死性家族性不眠症)、スモン、などが神経難病としてあげられ、サルコイドーシス、結節性多発動脈炎、アミロイドーシス、後縦靭帯骨化症、モヤモヤ病、広範脊柱管狭窄症、神経線維腫症、亜急性硬化性全脳炎、副腎白質ジストロフィー、ライソゾーム病なども、神経系がかなり強く侵されるという意味では神経難病の範疇に入る。

現在の医療技術では神経難病の患者をcureすることが出来ないことから、careが大切なのはいうまでもない。筆者の患者も、嚥下性肺炎を起こしては入院し、リハビリの最中にPTから受けていた施術の際に大腿骨骨折を起こして入院し、急性腎盂腎炎と細菌性ショックを起こしては入院し、喀痰を詰まらせて窒息を起こして入院し、と大きな医療的なトラブルに見舞いながらもその都度生還して在宅療養を維持してきた。その中で、最後は家で看取りたいというのが、長く在宅療養を続けた神経難病患者とその家族の気持ちだ。

7年在宅で診療した脊髄小脳変性症の患者が旅立つのを見送った時のことだ。

最初は立って室内を歩けた患者が、次第にベッドに寝たきりになり、最後の数年は、殆ど指先を動かすことが出来るだけで、声も出せず開眼する事も大変な努力を要するという全身の強い筋固縮と強直姿勢が著しい状態となっていた。

しかし、そんな中で、娘さんの結婚式にタキシードを着て教会に車椅子で出席し、可愛いお孫さんを抱くことも出来た。在宅のベッドの周りには、常に愛情が溢れていて、彼はその愛を充分に有難く受け止めていたようだった。「今度は危篤になっても入院治療はせずに・・・」というご家族の意思で、最後は腎不全となって危篤となったが、ステロイドを筋注した程度で特に治療はせず、胃瘻からの水分も最後は絞って、浮腫むことのない自然な身体で安らかな死を迎えられた。在宅医療の最後の句読点を、きちんと打てたことが何よりも良かったと思っている。合掌。

かつて、国が入院医療から在宅医療へとシフトした時には、日本の在宅医療はかなりの進歩を遂げるのではないか、と我々は期待したものである。しかしながら、日本経済を運営することの失態から、医療全体のプライマリーバランスの変化を生じさせ、入院ベッドを削減した分に見合っただけの在宅医療環境をも発展させ得なくなった。これは政治の失態であり、政治に影響を与え得ない不幸にして非力な日本の医療サイドの問題でもある。

筆者は、神経難病の患者に充分な在宅医療環境と充分な福祉サービスを提供する政府を強く望む。

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