ドクタープロフィール
ドクター神津
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2005年4月号 -ITと私- backnumberへ
 ジュール・ベルヌ、アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラーク、H・G・ウェルズ、レイ・ブラッドベリ、小松左京、星新一、こう続ければSF好きの人なら心躍るに違いない。海底二万マイル、地底大国、火星探検、タイムマシン、ロボット、アンドロイド、反重力、ブラックホール。これに、イアン・フレミングが加われば、少年の頭はもう現実世界を離れていく。殆どがハヤカワ書房だった。中学生の頃から、やや厚手の表紙に色鮮やかな未来図が描かれていたSF叢書をすべて揃えていたから、結婚をして家を出る時に母と一緒に本を整理して、古本屋に持っていったら、これだけは高く売れたのを良く覚えている。今なら手放さなかっただろうに、惜しいことをしたものだ。
ハヤカワ書房では、単行本以外に月刊誌をいくつか出していて、その中にSFマガジンがあった。毎月これが出る25日には、それこそルンルンと心を躍らせて買いに行ったものだ。裏表紙には、いつも小粋なショートショートが載せられていた。いつの頃からか、ここに星新一が彗星の如く現れて、自分にもあのくらいは書けると思って何回か投稿したがダメだった。そんな楽しい空想の世界に浸っていた子供の頃の私だったが、父親はSF小説も手塚治虫の漫画も理解できなかったから、勉強が滞る、と家ではあまり歓迎されなかった。今、ソニーもトヨタもロボットを作っている。二足歩行が困難でbrake throughがなかなか出来なかったが、鉄腕アトムが生まれた2003年になって急速に進歩したのは、遺伝子に刷り込まれた人間の進化の必然なのだろうか、何故かデジャブを見ているような気がしてならない。私の長男はアトムと誕生日が一緒の4月7日、8日が私なのも何かの縁か。
元来、SFというのはその字が示すように、science fictionである。しかし、単なる絵空事やいいかげんな空想で物語を書いているわけではないのだ。ある意味、科学技術の未来を小説という形で我々の目の前に見せてくれた、技術解説書のようなものだった。それが、ちょっと先を見すぎたために、一般の人には信じてもらえなかっただけだろう。ガリレオの地動説も、湯川秀樹の中間子理論も、アインシュタインの相対性理論も同じ範疇だといったら、まともな科学者といわれる人たちは気分を害するだろうか。しかし、中世の科学者はその空想と論理の中で真実を探求しようとしていたし、古典的哲学者達も同じである。今のように発達したテクノロジーがなかった時に、自然現象の観察から、その規則性とその中に潜む「真理」を導き出したのは、彼らの並外れた想像力と、新しい観念を作り出す創造力あったからだ。こうした力は、未来を見通せない人には無縁なものだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチの著書が岩波文庫にある。これを私はSF小説と同じように大切にしていた。人力飛行機やヘリコプターの原理がそこにはあって、どうしたら自分は飛べるだろうかと、よく夢想したものだ。人体の解剖はまるで「ミクロノ決死圏」を見ているように中学生の私には思えた。素晴らしかった。興奮した。H・G・ウェルズは、「世界史概観上・下」という素晴らしい歴史書を書いていて、私は日本の教科書より彼が考える「世界」の方が正しいと考えていたから、受験勉強前にもこの本を必死になって読んでいた。それで国立大学の入試問題とは相性が悪かったようだ。ちなみに、英語の受験勉強は「Snoopy」だったから、これも相性が悪かったのだろう。しかし、今となってはその基礎がアメリカでの留学生活に大変役に立ったのだから良しとしよう。
さて、昔は空想に過ぎないといわれたSF小説の題材が、今では一つ一つ現実のものとなっていることに驚きを禁じえない。ジュール・ベルヌの書いたノーチラス号が、そのまま原子力潜水艦として現れた時には実に不思議な思いがした。テレビもラジオも、月ロケットも宇宙ステーションも、光ファイバーも、インターネットも、携帯電話も、ホログラフも、相対性理論も、CTもMRIもロボット手術も、みんな人間の想像力と創造力によって具現化されてきたのだ。イアン・フレミングが007シリーズで読者に提供したfiction、映画で使われた小道具やスパイ活動の描写は、そのままアメリカの国防総省の武器開発や情報戦のモデルになったことは良く知られた事実である。腕時計型の極小携帯テレビは、日本のシチズンが開発した優れもので、ジェームス・ボンドも使っていた。これが出た時にSF好きの私は、これを買うのが神に与えられた使命だと感じて、東急本店で大枚20万円余を投じて手に入れた。おそらく東京で一番最初の「テレビ付き腕時計」のオーナーだったはずだ。それが25年以上前の事だから、もちろん家内にも両親にも呆れられた。その骨董品が、今でも息子が持っていて、機能するから大したものだ。
今では日本の「マンガ」は世界で通用する代表的な文化の一つになった。宮崎駿は後から出て来たから世界に受け入れられてもてはやされているが、マンガ文化の基礎を築いた昭和20年代、30年代の素晴らしい芸術家達がいたから今があるといえる。平安時代と鎌倉時代にまたがって描かれた鳥獣戯画が漫画の原典といわれるが、中国の文化である漢字を、日本独自の「ひらがな」という進化した表音文字に写し替えた独創性が、社会を風刺し、人間らしい表現に終始する漫画に憑依したといっても良いだろう。人間を描写する芸術センスは、浮世絵となりフランス絵画に影響を与えたことは周知の事実である。そして、コマをはみ出すダイナミックな描写スタイルや、時空間を飛ぶように描かれるカット割り、シリアスであったりコミカルであったり、壮大な叙事詩を思わせるような物語性を持ち、人を感動させる吹き出しの言葉と創造力を形にする絵筆の力で、読者の眼と心を惹きつけてやまない。これが日本の漫画家が作り上げたアートだ。今、世界の子供はディズニーのマンガより、日本発信のマンガを見て育っている。日本の社会をマンガの世界で疑似体験しているといっても良い。日本の政府はこれに気付いているかどうかは知らないが、これほど周到な情報戦略はないのだ。
というわけで、私が今のITリテラシーを自然に身に付けたのは、好きなことをあきらめないで追求してきた結果だということが自分でも良く分かった。これからも、自分の感性に従って、10年後、20年後の新しい世界を先取りして行きたいと思う。

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