ドクタープロフィール
ドクター神津
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2006年11月号  『フィリピンとの人的国際交流を促進する』(II)
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  『フィリピンとの人的国際交流を促進する』(II)

 「とにかく、私はそんな忙しい一日を過ごしたのである」と前回の10月号で書いた。
 しかし、まだその日が終わったわけではなかった。昼の会議が終わった後に、今度は銀行の副支配人とミーティングだ。大きなモールのコーヒーショップで、中国系フィリピン人と思われる眼鏡をかけた副支配人と、そのパートナーらしい30代の男性が我々を待っていた。CHPのオーナーである若い精神科医の友人との事で、我々の活動の一部を支援してくれるかもしれないという話だった。今現在、日本に来ているケア・ギバーは、受け入れ先の病院が滞在費や教育費の殆どを出資している。日本の優良な病院にしてもその額は大きな負担である。銀行とともに生徒が自分で借りることが出来るFundがあれば、その方がシステムとしては負荷が少ない、ということなのだ。しかし、車のローンでも5%であるのに、銀行側は10%を要求したので、この話は無しにしよう、ということになった。銀行との交渉というのは、私も開業資金を借り入れるのに大変な苦労をしたので分かるのだが、とてもタフなものだ。落し所がどこになるのか、それはもう少しwatch & seeしてみなければ分からない。どこをつつけばうまくいくのか、それを探すのもある種の交渉力だ。
  その日の夕方、AMA(前回説明した学校法人)の責任者たちが謝りに来る、という秘書の話でスケジュールはまた少し混乱した。実は、我々の協会と共同して働くことを約束しながら、裏で一人の担当者が別のエイジェントと交渉していたらしい。フィリピンではこうしたことは日常茶飯事らしいが、日本の感覚では信用に関わる大変に困ったことである。「そんな状態ではおたくとは一緒に働けないね。うちの理事長にも会わせるわけにはいかない」と、こちらの副理事長が厳しく叱ったのも当然なのだが、あちらの3人の運営スタッフがPICAOの事務所に駆けつけて、平謝りに謝ってきた。結局は私が彼等に挨拶をすることになったのだが、他の国とのビジネスや外交交渉というのは、こんな風に行うのか、という良い経験をした。

  さて、この交渉が終わって、今度はEddyさんたちとのdinnerだ。マニラの中心は、business districtで、ビジネス街とホテルとマンション、それにデパートや大きなmallやその中にあるレストランなどで賑わっている。夕方のスコールが空気を爽やかにしてくれているが、やはり蒸し暑いのには変わりはない。ここマニラでは、セキュリティチェックが厳しく、mallに入るのにもハンドバックやカバンはファスナーを開けてセキュリティーに見せなければならない。しかし、慣れればこんなことは面倒でも何でもない。私も入場の時にはさっと開いて中を見せる。Thank you sirという挨拶があるから、かえって笑顔が出る。商店街は、いわゆるアメリカ型のショッピングモールだ。靴屋、Tシャツ屋、ハンドバック屋、洋服屋、本屋におもちゃ屋にキャンドル屋、アクセサリーを売る店、様々な店が並んでいる。果物を売る店もフードショップもあって、主婦や若い女性が会計の順番を待っている。この光景は、どこの国でも同じだろう。日本でよく報道されるような貧民街ばかりかと思っていたら、大きな誤りだ。一般国民のレベルは着実にアップしているようだった。
 Dinnerを食べたのはフィリピン料理の店で、六本木ヒルズの庭園側にオープンしている、一部オープンエアのテーブルのあるイタリア料理店のような雰囲気の店だった。多くのテーブルにはすでにお客が楽しく談笑している。アクセサリーも着ているものも洒落た人が多かった。一つテーブルの向こうには、20代の美人が数人とgood lookingな男性が数人いて、 お互いにデジカメで写しては楽しそうに会話をしていた。日本でいう「合コン」なのかもしれない。我々は、Eddyさんとその仲間たち8人で食事をした。フィリピン料理というのがどんなものか知らなかったが、揚げた魚料理にレモン入りの醤油やナンプラーのようなソースをかけたもの、鶏肉料理に春巻き、ピラフ、それにタイ料理に似たトムヤンクンスープのようなものなど、東南アジア全体に類似した料理であることが分かった。デザートにはHalo-Haloというアイスクリームとカキ氷と果物をふんだんに入れたものがあって(日本ではミニストップというコンビニで独占的に販売しているが、その元祖)、スタッフに自分の好きな組み合わせのものをオーダー出来るらしい。これらの料理にケーキとコーヒーを飲んだら、もうお腹がいっぱいになった。誰もアルコールを頼まないのは、運転するせいなのか?ちゃんと運転手がついているのに、レストランでアルコールをあまり飲まないのがフィリピン流のようだ。日本人は何かというとすぐ「まずはビール」、そしてすぐに日本酒か焼酎かワイン、ということになるが、アルコールを飲まないのも悪くはないのだ。飲酒運転で事故を起こすことが多い昨今の日本、ここらへんはフィリピン人を見習いたい。帰りの車の中で、日本語学校のownerの奥さんが体調を壊して嘔吐したが、私の日本からの手土産に渡したJALのビニール袋が役に立ったようで、車中が悲惨なことにはならなくて良かった。今でも、彼女の背中をさすった感触がまだ残っている。ロサンジェルスの旅行(http://www.e-doctor.ne.jp/e-doctor/08month/drroom/koudu/0110.html)の時もそうだったが、どこかで医療的な出来事に出会うのが医師の宿命なのだろう。

  さて、これで一応の公式イベントが終わったのだが、もう一つの事業の立ち上げを確認しなければならない。それは、日本人退職者のリゾート開発計画である。実は、Eddyさんはマニラの南200キロの郊外に広大な土地を持っている大地主で、さらに彼の奥さんやその親類が持っている土地を合わせると、三浦半島くらいにはなる。その一部をこのリゾート計画に提供して下さるとの話で、ICAOのモットーとする国際的な人的交流の、日本からフィリピンへという流れのもう一方の重要なkey personとなっているのだ。ICAOの蜂屋理事は、福岡市とフィリピンのセブ島セブ市との姉妹都市提携を橋渡ししている。姉妹都市同士の人的交流が始まれば、日本とフィリピンにおける国際交流の流れはさらに大きなトレンドになるに違いない。そこで、日本人退職者が冬の間の厳しい寒さを南国で過ごそうという考えも湧いてくるだろう。リハビリが必要な患者を、ゆったりとした環境で受け入れるというアイデアもある。そんな時に必要なのが、日本語が出来て日本人の心を理解する現地フィリピンの介護士たちだ。その基礎作りを今、日本で我々の協会が行っている。彼女たち彼らは、自分のキャリアアップのために日本に来て、日本語と介護スキルを学ぶ。日本語検定2級を取り、介護福祉士の資格が取れれば、日本で職を得ることが可能だ。さらに、その後の研修と現場の経験を積んで、彼女たち彼らが望めば日本で続けて働くことも、フィリピンに帰って職を得るという選択も可能になるのだ。NPO法人が手がけるものとしては夢もあり、社会に対する貢献度も高いこの事業は、是非成功して欲しいと思っている。

 ということで、Eddyさんにその土地を見せていただくことになった。ご自慢の日産Pathfinderに乗って、飛行場へ。彼の家族は皆さんが一機づつヘリコプターやセスナを持っているとの事で、格納庫は自分たちの飛行機でいっぱいである。専属のメカニックと整備士がいて、それぞれを最も良い状態にメンテナンスしてくれているらしい。また、趣味でプロ飛行操縦士として働いているので、彼のヘリをハイヤーすることが出来ると紹介してくれた。日本に比べると運賃はかなり安いらしいので、フィリピンに旅行される方は利用すると良いかもしれない。Eddyさんにライフジャケットのインストラクションを受け、5人乗りのジェットヘリで、いざ出発である。

次号へ続く。



日本語学校で勉強中の学生たちと。ブルーのスーツの女性が日本語の先生



腰に折りたたまれたライフジャケットを着けて、いざ出発

 


空から見るきれいな海と白い砂の海岸線。 フィリピンの手付かずの自然が羨ましい

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