ドクタープロフィール
ドクター神津
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2007年11月号 「パーキンソン病患者さんのためのFood party」
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 『パーキンソン病患者さんのためのFood party』

 管理栄養士というと、厨房の横にある事務室にいて、病院食のカロリーや塩分、たんぱく質、糖質の計算を毎日忙しくしている職種、というイメージがある。大きな病院の厨房は大体地下にあるので、顔を合わせる機会はめったにない。若い病院勤務医にとってはあまり馴染みがない人たちといえるだろう。

 私が母校の板橋病院で病棟医長をしている時に、入院患者の食事介助に時間がかかって、一日のスケジュールがうまく立てられないという問題が起こった。嚥下困難な患者に、看護助手が食事介助を行なうのだが、一度の食事をさせるのに数時間が必要、という患者が何人もいた時のことだ。朝の食事は8時に始まるのだが、2時間かかると他科受診にもリハビリに行かせるのにも時間が取れない。3時間かかれば、もうすぐ12時の昼の配膳にかかってしまう。看護助手も仕事は食事介助だけではないから、他の仕事が滞ってしまう。30年前は今のような近代的な配膳システムはなかったから、食事時間は厨房勤務の都合に合わせなければならなかった。厨房の朝は早いから、夕方は早めに引ける事になる。労働基準からいっても調理師たちの勤務時間調整は難しかった。夕飯の配膳は5時6時と早くなっていたが、これを遅くするためには、勤務シフトを変更し、超過勤務を増やすことになる。病院側には経営的な観点からその余裕がないとされた。今のような、食事時間を患者に合わせる、という考えはなかったのだ。食事の内容も、外科手術の後の全粥、五分粥、三分粥といったごはんの硬さを変えるか、咀嚼が出来にくい患者には、刻み食やミキサー食などといった、何が入っているのか外見ではわからないような不気味な食事が平気で出されていた。
そんな時に「神経内科の患者のために、嚥下しやすい食事の工夫をして出して欲しい」と要求したので、管理栄養士たちと会うことになった。当時の副院長は外科のT先生で、私のことを可愛がってくれていたので、神津先生の意見をまず聞こうじゃないか、と話し合いの場を作ってくれたのだ。

 この時に分かったのは、管理栄養士という職業は、食材の仕入れの管理、栄養やカロリーの計算をして朝・昼・晩のレシピーを作り、それを調理師に伝えて賄い婦に食事を作らせる。それだけでも大変な労働で、毎日新しい患者や治療、病状の変化に対応していくにはいくら時間があっても足りないのだ、ということだった。しかも、管理栄養士は病院に何人もおく必要がないので、常にオーケストラの指揮者のように孤軍奮闘しなければならない。当然、それを食べる患者自身のことを病棟まで足を運んで見に行く時間などあろうはずがないのだ。
そこで私は、患者の食事をしているそのままをビデオに撮って、医局にあった小型テレビと一緒に地下の厨房に持ち込んで、管理栄養士や調理師たちに見てもらうことにした。

写真 1

「こりゃ大変だね」
と調理師の一人が、なかなか飲み込めない患者の食事光景を見て呟いた。
「やりましょう、先生。なんとか、この方たちがうまく食べられるような食事を作ってみましょう」
周りの人たちも、うんうん、と頷く。正直、うれしかった。
  当時は、北里大学病院で、ようやく病棟のベッドから患者を専用食堂に連れ出して食事を提供する、という試みが始まったばかりだった。これによって、患者の社会性が向上し、退院への時間が短縮された。今はどこの病院でも、こうした患者専用の食堂が当たり前のように出来ているが、かつては最先端の医療サービスだった。
都立老人研究所病院も同様の試みをしていて、さらに嚥下障害のある老人にいろいろな工夫をして「食」からのアプローチを試みているとの情報が入った。
早速老人研に電話をしてアポイントをとって、そこの管理栄養士さんにノウハウを教わりに行った。そこでは、色と形を目で見て楽しみ、口に入れるとすっと崩れるような食材と調理の工夫をしていた。そのためには、圧力釜を良く使う、と教えてくれた。また、老人が興味を持つように、季節や一年の行事に合わせたメニューを作っていた。これらをメモし、今のようにデジカメなどないから、コダックのインスタントカメラを持っていって実際の食事を撮影してきた。それを厨房にもって行き、管理栄養士や調理師たちといろいろなアイデアを練ったのを思い出す。こうして、「嚥下困難食A」「嚥下困難食B」が出来たのだ

写真 2

 こうした管理栄養士とのチーム医療は、開業してからも続いている。14年前には栄養指導の保険診療報酬点数は微々たるものだったが、持ち出しを覚悟で臨床経験のある管理栄養士に来てもらった。今もその方針は変わることなく、四人目の管理栄養士の伊藤さんが非常勤で来てくれている。伊藤さんもそうだが、世田谷には管理栄養士の自主グループがあって、独自の素晴らしい活動を展開している。
 「管理栄養士は地下にいて、患者の顔を見ることもない」と前述したが、彼女たちも好き好んで地下に閉じ篭っているわけではないのだ。仕事の性質上仕方がない。そこで、子育てや結婚、転居などいろいろな理由で病院を辞めた管理栄養士のOGたちが、地域で自分たちの技能を役立てることは出来ないか、と考えたのだ。
たまたま世田谷区で在宅医療研究会を主催していた私のところに、松月さんが尋ねてきた。やはり一緒に在宅医療研究会に係わっていた三宿の亀井真一郎先生と一緒に、三人で神津内科クリニックの待合室のソファーでいろいろと話し合ったのを昨日の事のように覚えている。今のように介護保険もなく、在宅医療の保険点数も限られていた時に、「在宅で栄養指導をしたら医師と管理栄養士と、feeをどうやって折半したらいいか」など、突っ込んだ話し合いもした覚えがある。
平成10年、松月さんは仲間数人と一緒に「E-Net」というグループを結成した(http://www.rakujushoku.jp/rakujutei.htm)。
その後、資金的に困難な面もあって、対社会的な組織をきちんと作らなければということで、私が顧問になって「医と食を考える研究会(医食研)」を立ち上げた。そしてこの研究会の活動の主体となったのが「パーキンソン病患者さんのためのFood Party」だった。当初は製薬会社が社会貢献の一部として係わってくれていたが、今は介護食を販売する会社(ヘルシーフード)が協賛してくれている。
この活動は最初、飲み込みやすい食事、Lドパ製剤との食べあわせなどを中心において始まった。その後は「視覚刺激に良い食事」「嗅覚刺激に良い食事」「季節感を味わう」など、いろいろなテーマを扱うようになった。実際のFood Partyの様子を以下に紹介する。
・ まず、管理栄養士のグループが事前に良く計画を練ったレシピーを参加者に配布。
・ 次に、料理解説者がやるように参加者を前にして解説、作り方をデモンストレーションする。
・ その後に、参加した患者や家族、ヘルパーや看護師と共に実際にこのレシピー通りに作ってみて、調理のしやすさなどを実体験してもらう。一部の食材はすでに半分調理済みになっている。
・ そして、参加者全員で試食会。見た目の綺麗さ、味、飲み込み易さなどを実感していただく。

 私も毎回調理に参加するようにしている。今回はチャーハン作りに挑戦し、周りの参加者に「手際がいい」などと褒められた。食事の後に私が10分ほどのミニレクチャーをし、松月さんの料理の話で〆られる。こんな取り組みが、もうすでに14~15回になる。一年に二~三回ずつやっているから、もう5、6年になる計算だ。その間に朝日新聞の家庭欄に取り上げられたり、いろいろな雑誌に載ることとなった。今ではその成果を「5分で出来る介護食」(中央法規出版)という書籍にまとめて出版もした。
  こうした新しい取り組みが、日本全国に広まって欲しい、と願う私である。

写真 3


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