『東洋思想とその哲学が21世紀を救う』
謹賀新年。
今年も新しい一年が始まった。地球という限られた空間と時間の中で、一年一年が貴重であることが分かってきた。地球環境が次第に破壊され、太平洋に沈む島国も出てきている。
20世紀に、我々はアクセルを踏みっぱなしで経済成長と工業化を成し遂げてきた。資本主義の明るい未来を信じて。しかしその結果、貧富の格差が著しく生じて、社会の歪みが強くなった。社会主義が壊れたロシア、中国にも資本主義の悪弊が押し寄せている。韓国の大統領選挙は、経済成長を旗印に期待を背負ってイ・ミョンバク氏が当選したが、日本のような技術力を持った中産階級層がいない格差社会で、どれだけ韓国国民の期待に添えるか先の見えない状況がある。アラブ社会、イスラム社会では石油資源がなくなったとたんに急激な経済低成長と貧困が押し寄せてくるだろう。東欧も東アジアも、経済成長への大きな期待を持っているが、すでに地球は経済戦争のゴールに近づいている。遅れてきた走者は、ゴールテープを切ることなしに競技場で倒れこむことになるだろう。これは南米もアフリカも同じだ。こう考えると、経済成長そのものが悪であるという21世紀のビジョンが見えてくる。
|
1972年に「ローマクラブ」は、『世界人口、工業化、汚染、食糧生産、および資源の使用の現在の成長率が不変のまま続くならば、来るべき100年以内に地球上の成長は限界点に達するであろう。最も起こる見込みの強い結末は人口と工業力のかなり突然の、制御不可能な減少であろう』と予測した。 |
|
西洋の産業革命や十字軍的な宗教戦争、富の社会における優位性などが、実は地球にとっては覚醒剤のようなものだった。20世紀の後半、人間が地球と共に生きるためには、東洋的な思想に基づく内的な精神性を大切にしていかなくてはならないと、ジョン・レノンもジョージ・ハリスンも悟っている。
仏教は平和な宗教である。儒教は家族とその延長であるコミュニティーが平和に生きていくための教えだ。そして、人が何故生きるのか、と問う哲学が、今後の世紀の古くて新しい、そして正しい生き方になるだろう。人の心を和ませ、やさしさと微笑を作り出すhumanityは、人と人を繋ぐ愛のエネルギー源だ。このエネルギーこそが地球を救うのだろうと思う。
|
2004年にさらに「ローマクラブ」は『人類社会はすでに行き過ぎて(over shoot)しまった。限界を超えてしまった。しかし、持続可能な社会は技術的にも経済的にもまだ実現可能である。
そのために必要なのは、産出量の多少よりも、満足さや公平さ、生産性や技術以上のもの、成熟、憐れみの心、智慧といった要素が要求されるだろう』と警告する。 |
|
今の日本は、このhumanityとは対極にあるエログロナンセンスと下品な哄笑に満ち満ちている。成金の家財道具を見せる拝金主義、裏の世界や混沌たる不義が渦巻く民放テレビの流す毒。この毒を早く取り除かなければ、日本人は以前に世界の人々から蔑むようにいわれた本当の「economic animal」になってしまう。刺激的なものでなければマスコミに流さない、それが一般国民の欲望なのだ、という穿った見方で情報を握る輩の、覚醒剤中毒に似た麻痺した脳細胞、それがどれだけ日本人の心を傷つけてきたか。今の日本に起きている多くの驚くような不祥事は、大半はここに起源があると考えざるを得ない。
かつては、売れなくても書かなければならない、売れなくても記さなくてはならない、というジャーナリストたちが日本には少なくなかった。今は本当に少ない。深く考え、時間をかけて推敲する。言葉の一つ一つに意味を持たせ、人の心を打つ文章を公にする。その使命を、ジャーナリストは持たなければならない。
医療に関しても、似たような状況がある。世界の中には、我々からすると当たり前の医療を受けることが出来ない人々がたくさんいる。この医療格差は経済格差と関係があるが、ただそれだけではない。医療に対する国民の考え方や施政者の理念などと関係がある。
アメリカでの移植医療の現状は、外科医療が主体の国ならではの事である。キリスト教では臓器は神様からもらったもので個人のものではないという考え方が一般的だ。だから他人に提供することを拒まない。しかし日本では、身体は親からもらったもので傷つけてはならないという考えが一般的だ。脳死だからといって身体に傷をつけて臓器を提供するという人は少ない。
古代社会では、強大な権力を持った王や独裁者が「不老不死」を熱烈に望んでいた。そのために愚かな非科学的なまつりごとが行なわれた。それを我々は遺跡や古文書から知ることが出来る。それと同じことが、果てしない欲望を満たすために次々と世界の富を略奪し、今もその手を緩めないアングロサクソン達の心の中にあって、医療技術もそのために発展せしめたし、医療資源についても今世界中で激しく浪費している。その究極の技術が臓器移植であり、遺伝子操作や人工冬眠技術である。日本もその後塵を配しているといわれても仕方がない。
しかし、人が死ななくなったら、それは悪性腫瘍と同じで自己増殖の果てに自らの生命を失わせることになる。人が死ぬ存在でも、死なない存在でも、どちらにしても最終章は迎えるのだ。それであれば、悪性腫瘍としてそのスピードを速めるより、命の尊さを慈しみながら、人として生きた素晴らしい証を地球の上に残していくことが、神に与えられた我々の命の意味なのではないかと考える。人は病むことによって成長し、病むことによってやさしくなれるのだ。
昨年はいろいろな面であっと言う間に過ぎてしまって一年が短かった。今年は、もう少しゆっくりと生きてみたいと思う。
|