ドクタープロフィール
ドクター神津
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2008年2月号 『~あなたはどこで死にますか?~』
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『~あなたはどこで死にますか?~』

 

社団法人日本医学協会から、シンポジウムの講師依頼が来た。テーマは「医療と介護のはざまで」in世田谷~あなたは家で死にますか?それとも施設で死にますか?~というものだ。羽田澄子監督の映画「終わりよければすべてよし」を上映して、その後にシンポジウムをする。私とNPO法人「サポートハウス年輪」安岡厚子理事長が講演をすることになっている。最近では、こうした終の棲家をどこにいつ求めるか、ということを真剣に議論できる雰囲気になった。第二次世界大戦が終わって、世界のどこかで地域戦は闘われているが、日本が戦争に巻き込まれることはなくなったといってよい。今や高齢者が死に至るのは、いくつもの病気との闘いでだ。以前は病気との闘いは病院でと決まっていた。死ぬか生きるか、二つに一つだと。しかし、医療、医学の進歩は、病気と闘うのでなく、共存することも許すようになってきた。エイズも癌も、治療を継続しながら生きることが可能だ。そして、人生の最後をどのように生き、どのように最終章を閉じるか、一人一人に選択する余裕が与えられる時代になった。全てが否応なしに、抗うことも出来ずに運命と諦めるしかない時代が少し前にあったことを考えると、良い時代になったのだろうが、またそこに戸惑いと自己決定の困難さを感じる。これからの社会で、どのような日本人が「期待される人間像」として人格形成されていくのだろうか。哲学者としては興味がそそられる。

 

正月のNHKのテレビ番組で、石原裕次郎の没後20年の記念番組を見た。何の気なしに点けたテレビだったが、石原まき子夫人の話についつい引き込まれた。20年という年月、あっという間でもあり、またその間に多くの変化もあったというわけだ。それにしても、当時は自分よりずっと年上だと思っていた裕次郎が、亡くなったのが52歳で今の自分よりずっと年下だったということに驚く。

若き日の裕次郎。葉山沖で自艇のA級ディンギ「コンテッサ」に乗る。Dr.神津も最初これと同じ船に乗っていた。
(石原まき子著「逢いたい」:主婦と生活社刊より)

 我々の専門領域である医療に関しても、多くの変化があった。20年前、「医療」は病院で受けるもの、と決まっていて、誰もそれを疑うことはなかった。当時は「緩和ケア」という概念もなかった。今では当たり前になった「癌の告知」という考えさえも少数派だった。
 NHKの番組は、人を撮らせたら民放の比ではない。淡々と語る石原裕次郎夫人、彼女は北原三枝という女優でもあった。その言葉の彩に鮮やかな裕次郎が現れる。
 裕次郎が最後の闘病生活を送ることになった時に、まき子夫人は石原組の番頭である小林専務に、裕次郎が癌であることを隠し通すようにいわれる。
 「私にはそんなこと出来ません。だって、24時間一緒にいるのよ。裕さんという人は、ちょっとしたことにとても敏感な人でしたから、すぐにバレてしまう、そういって断ったんです。でも専務は『あなたは女優でしょ!そう演じることが出来るはずだ』と私に迫るんです。それで、じゃいいわ、私は裕さんの癌は良性の癌だって、そう信じることに決めたんです。良性のものなら治るでしょう?信じているのだから嘘をついているわけではないんです。そうして、ずっと裕さんには癌であることをいいませんでした。そしたら、『お前がそういうんなら俺も信じる。もう何もいわん』と、それから聞かなくなりました。テレビ画面からは裕次郎の最後、刻まれた時の一秒一秒が鮮明に伝わってくる。裕次郎は肝臓癌で、最後は肝不全に陥って行く。解毒作用や蛋白合成などの働きが悪化し、血液中のアンモニアが増加し、アミノ酸の配分がアンバランスになると、脳の異常を呈する。それが肝性脳症だ。裕次郎はこうした状態を長く患うことになる。夜中に悪夢を見て飛び起きることが何度も起こり、朦朧とした意識の中でまき子夫人に「俺がどんな悪いことをしたっていうんだ。俺は何も悪いことはしていないぞ、そうだろう、誰に迷惑を掛けちゃいない。それなのに、何で俺がこんなに苦しまなくちゃいけないんだ。え、そうだろう?」と何回も問い掛けたという。そんな様子から、周囲の目からは入院が必要だということになる。しかし、裕次郎は自分の家で療養することを望む。まき子夫人は言葉を継いだ。
 「その前の、大動脈瘤手術の時の入院が、本当に嫌だったのでしょうね、俺はもう絶対に入院はしないからな、って。周りのものがいくら説得しても聞かなかったんです。それで私は『私が眠れないの、あなたが家にいると私が眠れないのよ。だからお願いだから入院して』といいました。つらかったですね。裕さんはしばらく何もいわずだまっていました。それから、『じゃ入院してやる。いいか、お前のために入院するんだからな、お前のために!』といって入院の仕度をしたのです。それもパジャマを着たままで。裕さんはお洒落な人でしたから、自分の部屋を出るのにもちゃんと着替えて出る人でした。スリッパのまま玄関を出ることも無かったんです。それがパジャマとガウンのまま家を出たのです。そして、私と目を合わさず、後ろを振り向くこともなく『もうこの家には帰ってこないだろうな』と呟いて裏口から出て行きました。私、その後声を上げて泣きました」昭和62年、5月5日、午後4時30分の事だった。
 その後、病院での闘病生活が2ヶ月続き、肝性脳症による幻覚と腹水でパンパンになった腹部の張りと腰痛、日に何回も襲ってくる高熱に苦しみながら、7月17日午後4時26分、石原裕次郎は天に召される。
 「患者の居宅」が「医療を行う場」として法的に規定されたのは、平成4年の医療法改正によってだ。それまでの「医療行為を行う場」は、医療機関の外来診療において「診察、検査、処置、投薬」が行われるか、あるいは入院して同様の医療的管理が行われるかの二つしか選択の余地はなかったのである。昭和62年という年は、在宅医療の前史だ。慢性疾患において長期臥床を要する患者や、cureよりcareが必要な様々な病態の患者(老衰や末期ガン患者等)の入院は長期化せざるをえなかった。

主婦と生活社発行のまき子夫人の著書。不思議とここからは俳優裕次郎は見えてこない。一人の妻と、病気の夫という普通の事実だけだ。

 裕次郎は、当時の医療技術ではcure出来ない状態であったのだと思うが、それであれば、もっと良いcareをしてあげることが出来なかったのか、今思うと医療者として悔やまれる。まき子夫人の著書「妻の日記」を読むと、ステロイドの副作用で鼻より頬が高くなった強いmoon faceになり、手足はやせ細り、腹水でお腹は大きくなり、幻覚を見ながらわけの分からないことをいっている。腰痛がひどく、笑顔も見られず、まき子夫人は背中をさすりながら「可哀そうのあまり絶句」と書いている。入院治療のストレスとプレドニン40mgの長期投与のため、感染しやすく十二指腸潰瘍にもなっていた。それでも主治医は退院を許可しなかった。今の医療環境と何という違いだろう。
 「家はいつ退院しても良いように万全を期しているので何も心配は要らない。しかし、病院側の反対がある以上不安の生活の中へは、恐ろしくて入れられない」とまき子夫人は日記に記す。教授回診で、今日は少し良い、肝機能は改善傾向だ、などという気休めの言葉にも一喜一憂する部分を読むと、臨床医としては真に辛いものがある。家族としてのまき子夫人に、誰も「在宅医療」をすすめてくれる人はいなかった。20年前というのは、そうした時代だったのだ。
 その後、国はいくつかの構造改革をすすめる。在宅医療を行う上での保険診療上の基盤整備は、昭和61年頃から「寝たきり老人訪問診療料、同訪問指導管理料」が新設されて始められ、昭和63年には「在宅患者訪問看護指導料」が、平成4年に「寝たきり老人在宅総合診療料」が、平成6年には「在宅時医学管理料」「在宅患者訪問24時間連携体制加算」などが次々と保険医療の中に組み込まれていき、平成4年からは訪問看護ステーションが活動を開始する。
 現在では、病院医療で行われる多くの技術が在宅医療サイドで行うことが可能となり、次第に国民は医療を提供する場として、入院、外来、在宅のいずれかを自由に選択することが出来るようになるはずだ。もちろん、在宅医療が日本の中で当たり前の医療として成熟するまでには、医学教育に携わる大学関係者も含めて、さらに知識と技術を高めていく必要がある。

「2人のベッドルームからは右手に抜けるような青空を背景にしてプールが見えました」と説明書きが添えられた写真。裕次郎が「ハレ・カイラニ(天国の家)」と名付けたハワイの自宅ベッド。
(石原まき子著「逢いたい」:主婦と生活社刊より)

 石原裕次郎という希代の大スターの最後が、つらく苦しみに満ちていたことを知って、日本人の医師として何とも歯がゆい思いがする。素晴らしい人生の最後を、素晴らしい人たちと満ち足りた時間を過ごして欲しかった。ハワイの眩い光の中で、海を見渡せる豪邸のベッドで潮風を頬に受けながら、痛みもなく、美男子のままで、まき子夫人が寄り添い、お前と生きてきて良かった、お前はいい女房だった、じゃな、みんな、あばよ、といって旅立って欲しかった。
 そんな旅立ちが、自分には出来るだろうか?

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