ドクタープロフィール
神津 仁 院長
神津院長は昭和52年に日本大学医学部を卒業後、同大学第一内科に入局され、その後、神経学教室が新設されると同時に同教室へ移られました。医局長、病棟医長、教育医長を長年勤められ、昭和63年、アメリカのハーネマン大学およびルイジアナ州立大学へ留学。帰国後、特定医療法人佐々木病院(内科部長)を経て、平成5年に神津内科クリニックを開業された。神津院長の活動は多岐にわたり、その動向は常に注目されている。
2008年7月号
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レセプトといえば・・・


 前回の号でレセプトのオンライン化の話をしたが、まだまだピンと来る人が少ないようだ。日本医師会には、西山氏を呼んでその詳細を聴取するよう依頼しておいたが、どこまで切り込んでもらえるかは分からない。会員とともに歩むことが出来る日本医師会に早くなって欲しい。


 ちょっと話がそれるが、日本の診療報酬請求書(レセプト)の作成にコンピュータを用いるようになったのは1990年代のことで比較的新しい。レセプトそのものは1960年代から始まっていて、昔はどこの診療所でも病院でも「手書き」でこのレセプトを出していたから大変だった。私の実家も世田谷の無床診療所だったから、月末月初は一家総出でこのレセプト作成をしていた。
 院長である父が病名を入れ、カルテからレセプト用紙に診療内容を書き入れる。院長の胸三寸でどうにでもペン先が滑ることが出来た時代だから、多少の水増しがあったかもしれないが、我々子供には分からなった。その後に住み込みの従業員や母がそこに書かれた点数を計算する。昔は皆、ソロバンか暗算だったから、何回も繰り返して全ての計算が合うまでやらなければならない。患者の数が多ければ、それだけレセプト計算の時間かがかかる。1週間は夜なべ仕事だったかと記憶している。
 我々子供達も学校から帰るとよく手伝わされた。夕食が9時と一般家庭より大分遅かったから、11時頃はまだ食後の食卓で母がレセプト用紙をあちこちに並べて仕事をしていた。
医学部の学生だった頃、彼女を家に送っていって、彼女の父親が9時~5時の会社勤めで、6時~7時には夕食、9時~10時には消灯、という生活を見て仰天したことを覚えている。家に帰って、自分の家の生活が世間様とは違うのだということに感心して母にこの話をしたら「うるさいわね、今仕事してるんだから」と怒られた。


 1964年にトランジスタを使用した電卓CS-10Aがシャープ(当時早川電機)から出て、Canola 130がキャノンから発売された時に、父が逸早く購入し、ソロバンでなく「電卓」があるのだと友人に自慢したかすかな記憶がある。当時39万5,000円、大卒の初任給が1万9,100円だったというから、ものすごく高価な機械だったということになる。
 こんな高価な機械を買っても、すぐにペイした時代だ。
 武見太郎日本医師会長の下で「保険医総辞退」を経験した医師たちは、保険点数1点10円などという国の決定に、根本的な反対姿勢をとっていた。1点は18円で妥協してやる、と日本医師会は臨んだのだが、それは叶わなかった。自分達の職業的価値は、保険点数で決められるようなものではない。憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあるように、医療保険で「最低限度の健康」を保持する医療は提供するが、それ以上の良質な医療、高度医療は保険じゃ出来ない、もっと支払ってもらわないと、と考えていた。
 それで、ついついペン先が滑ることがあったようだ。今も同じような考えでペン先が滑る人が時々お縄を頂戴するが、どうも「医療機関側には無理を強いているのは『お上』だろう」という被害者意識、「保険でしてやっているのに文句をいうな」という権利者意識があるように見受けられる。だから、厚生労働省のお役人をして取り締まる側だった医師が、自分で開業して今度は取り締まられる側にまわり、やはり「ペン先が滑って」お縄を頂戴したという珍事があったが、これも仕方のないことかもしれない。もちろん、我々庶民医師には考えられない行為だが・・・。


 今回、5分間ルールというものが巷を賑わせている。
 本来、医師法第20条によって、無診察治療等の禁止、つまり診察をしないで処方箋を発行したり、診断書を発行したりしてはいけない、と決められている。まあ当たり前の事だが、忙しく働きまわるのが好きな日本人は、時間がないので診察なしで薬をもらいたいといってくる。症状が安定していれば、定期的な血液検査や心電図検査のみで、医師の特別の判断が必要になることはあまりない。だから病院の混んだ外来では「3時間待って3分診療」になってしまう。診察室に入っても「お変わりないですね」と主治医にいわれて、「はい」というと「じゃ、お薬出しておきます」と高血圧の薬や脂質異常症の薬が出されるので、それなら「しばらくの間は診察なしでお薬だけ出してもらえないか」となるわけだ。
 以前は厚生労働省も、この類の「人情の機微」を利かせる(法律の弾力的運用をする)ことに吝かではなかった。「患者の便宜を図るために、患者の病状・様態を把握していれば、特別にお薬だけの外来診療を認めましょう。そのためには、医学管理をきちんとしていると『みなして』管理料を加算しても良いですよ」としていた。いわばお目こぼしだ。
 しかし、今回このお目こぼしはなくなった。医師法どおりにきちんと診察して頂かなければ診療報酬を支払いませんよ、ということになった。しかも、管理料を現行の57点から52点に下げておいて、さらに5分間ルールで「5分間以上診療して頂かなければこの管理料も差し上げられません」という手かせ足かせを嵌めてきた。本来なら、「ここまでして申し訳ありません、5分以上診ていただければ100点差し上げます」とインセンティブにすべき項目である。
 それが中医協で再診料が人質に取られ、「勤務医対策、小児科、産婦人科対策」ということで「開業の先生に泣いてもらった」と厚生労働省の役人がいうとおりになってしまった。
「医師会は開業医の代表だから、勤務医には冷たい」と分けのわからないブラフを飛ばされて「いやそんなことはない」と見栄を張ったためにどっちつかずになった。日本医師会の「universalなやさしさ」が仇になったようで悔しい思いだ。今の厚生労働省の施策は「医療費の適正化」というが、本当のことをいえば「医療費の不適切な削減」だ。


 基本的には、初診料と再診料だけ決めていただいて、加算という紛らわしい点数制度は変えていただきたいものだ。再診料の中で、医師が患者、患者家族に問診、処方も含めて診療行為を行った時に「診療料」を頂けるようにするのが、本来のあり方だと思う。
 デンマーク、という国は、国民満足度の高い国として知られているが、それでも国民は怒ってストをすることもある。韓国でも医療者のストがあった。フランスでもカナダでも。なぜに日本の医療者はこれほどまでに物分かりが良くて、飼いならされた犬の様にしっぽを振りつづけるのだろうか。これが今ひとつ分からない。敗戦の後遺症なのだろうか。


 6月号で書いたお話の後日談として、第六回国際疾病分類学会の時に、厚生労働省の技官と「レセプトとICD」についての講演で来られた西山氏とが控え室で会った時の会話を最後に記録しておく。


西山:「レセプトオンラインなんていったって、こんなに日本のレセコンが問題を抱えているのに、どうやってやるんですか」
技官:「えっ? 何の話ですか?」
西山:「韓国なんか、きちんとICDに準拠してcodingも含めてデータウエアハウスの構築が出来てますが、日本は全くもって遅れているんですよ。」
技官:「いえ、知りません」
西山:「ええっ? 知らんのですか?」
技官:「誰もそんなことを我々にいう人はいません。中医協でもそんな話は出ませんから」


 つまり、我々が知っていること、世界で起っていることを、日本の官僚機構は知らないのだ。あるいは、知らない人が日本医師会の代表であり、審議会の委員や委員会の委員として出席されている、ということのようだ。
 国の施策を決定するプロセスの中に、年令が上だから、名誉ある地位にいるから、医師会の役員だから、という理由で漫然と出て行ったら、今のこの乱世は切り開けない。明治維新をやり遂げた人たちは、10代、20代の若き志士達だった。それが後に日本丸を動かす偉人となる。
 在宅医療を国の施策にした辻元審議官は、開業医の息子であり、佐藤智先生の元で鞄持ちをしていた。まだ、医師の側、日本医師会側にもその重要性を認識できていない人がたくさんいる中、実際に在宅医療の現場を勉強し、それを基に理論構築をしたから、その重要性を認識できたのだ。
 現場を反映する戦略とは何か、そこに医療者としての哲学と熱意が関わってくるのではあるまいか。


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