ドクタープロフィール
神津 仁 院長
 
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任


1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、運動部主将会議議長、学生会会長)
      第一内科入局後、1980年神経学教室へ。医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。
2008年11月号
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医の心-先輩医師に学ぶⅣ


 先月号から、表題が「医療スキッパー」となった。ヨット乗りならすぐに分かるのだが、スキッパーというのは船の舵取りのことだ。私が大学時代に乗っていた船はスナイプ級というヨットで、二人乗りのレース艇である。帆が二枚付いていて、船の前方にある小さな帆がジブセールといって、方向を素早く変えるため、また風上に効率よく切り上がるために付いている。このセールをクルーという選手があつかう。
 マストについた大きなセールがメインセールで、ヨットの主な推進力となる。このセール(帆)の調節と方向を決める舵を握るのがスキッパーだ。船を速く走らせ、マーク(レースではここを反時計回りに回る)に限りなく近づくための方向転換のタイミングを計るのが、このスキッパーの役割である。風や波や自艇の状態、他艇との距離や角度を頭に入れながら、クルーが周囲を見ながら(スキッパーはメインセールをコントロールするために、常にセールから目を離すことが出来ないので、自由に動けるクルーが周囲の状況をスキッパーに逐一伝える)報告する情報から瞬時に状況を判断してタック(風上に対して方向転換すること)やジャイブ(風下に向かって方向転換すること)を打つことを決断する。ゴールラインを切ってレースが終了するまで、一瞬一瞬の判断と決断と実行の繰り返しという責任をスキッパーは負っているわけだ。もちろん、太平洋や大西洋を横断する外洋ヨットレースも同じだ。

 

 医療スキッパーは、医療の場で突風が吹いたり凪にあったりする厳しい今日の日本の現状で、方向を見失わないでゴールに辿り着けるように舵取りをしなければならないのだろうと思う。優秀なヨットマンが、医療界においても優秀な舵取りになれるのかは神のみぞ知るだが、とにかくまずは、船出してみよう。

 さて、10月9日の水曜日に札幌に行って来たのでその話から始めたい。

 札幌に何をしに行ったのかといえば、第22回日本高血圧学会に参加し、ポスター発表をするためである。この学会は歴史のある学会だが、始まった頃は発表する場所が一か所に限定されていて、応募してもなかなか発表の機会が与えられない狭き門だったという。一か所だから、各大学の名だたる先生方が前列に陣取って、いろいろと厳しい質問や意見をいうので、若い研究者は恐れをなすという学会だったと聞いた。
 私のクリニックにアルバイトに来ている、国立病院東京医療センター循環器科のI医師は、以前にもお話をしたが、研修医四年目の優秀な医師だ。東京医療センターは研修医の応募が毎年多く、今年の臨床研修医のマッチング率も何十倍という狭き門であるから、いかに優秀かは推して知るべしである。その彼が、昨年はこの学会に応募をしてacceptされなかったのだという。その顛末を知っていたから、今回我々の地域で開業医仲間と研究したアンケート調査結果をまとめたものをapplyしたのだが、本当にacceptされるとは思ってもいなかった。
 最近の学会は、インターネット上でapplyして、返事もメールで知らされるというIT化が進んでいる。この学会もそうだったのだが、申し込んで数週間で返事が来たので、糠喜びしたところ、実は「コンピュータの配信ミス」で、まだ合否が決定されていないのにもかかわらず「あなたの論文は合格しました」というメールがすべての応募者のところに配信されてしまったという。今年も出したというI先生に確認したところ、「私のところにも来ましたが、どうも誤配信のようですよ」という話で、一度は舞い上がった心が、がっくりと折れてしまった。
 しかし、神様はそうそう簡単にはお見捨てにはならないものだ。何とか、我々の研究も学会でacceptされた。もちろんI先生も合格だ。そうなると、お互いの診察日を融通しないといけない。いつもは金曜日の午前中にI先生には来ていただいているのだが、病院の上司と掛け合って木曜日の午前中に来ていただけることになった。木曜日の午後が私の発表、金曜日の午後がI先生の発表と、うまい具合に日にちがずれてくれたので、何とか東京-札幌をとんぼ返りでも学会発表をすることが出来たのである。

 大学にいる頃は、「学会発表します」といえば発表者は免罪符をもらったようなもので、学会の前日から終わりまで、都合三泊四日は会場にいられた。Opening partyに出て、日本中の研究者と懇親を深める。発表前夜は多少緊張するのだが、景気付けにと酒が入る。終わればご苦労さん会で、開催地の美味しい山海の珍味をご馳走になる。一日は物見遊山で、学会の主催者が用意してくれたツアーに参加し、見聞を広めるために大いに見て回る。研究者というのは、こうした学会出張が年に何回かあって、それはまさに役得というものだ。病棟に重症の患者がいても、週に何回か受け持ちの外来があっても、「学会出張だからしょうがない」のだ。その間、留守を研修医や下級医に任せて行くのだから、学会シーズンの大学病院はいつもの機能を発揮できない危ない状況でもあるが、とりあえず、お願いが出来るマンパワーが大学病院にはあるのだ。そうでなければ、多くの学会が週の半ばから土日にかけての日程を組むわけがない。最近では、開業医の先生方の参加もしやすいようにと、多少の融通を利かせてくれる学会も出てきた。開業医が中心の医会などは、土日や祝祭日の重なる期間を選んで学会が開催されているが、地域の中で、少ない人数で頑張っているクリニックの医師が大きな学会に参加するのは並大抵のことではない。
 しかし、大変でも、大学の先生方と肩を並べて学術発表をする場を得ることは、なお大切なことだろうと思う。今回この高血圧学会では、開業医の先生方の発表を多く取っていただけたと後から聞いた。横浜の宮川先生という優秀な臨床医は二題の発表を出していた。今後もこうした活動を続けていくことが、日常診療の質を向上させるためには必要なのだと思う。是非とも若いドクターに、我々の後に続いてきてもらいたい。

 

国際親善総合病院名誉院長、順天堂大学名誉教授、加藤英夫
「私も興味を持ってインフォームド・コンセントの日本での理解のされ方といいますか、いろいろ書かれているものを読んでいますが、どうも私たちとズレがあるようです。
 これはあくまで輸入品でして、アメリカの医療では『あのときはそう言わなかったじゃないか』と、しばしば訴訟問題が起こるのです。たとえば、乳癌の手術をしたら乳房をごっそり切除して原型をとどめていないということで裁判になったりしますから、あらかじめ手術の前には承諾を得ておく。そういうことを言っているわけですね。
 ところが、日本の場合は必ずしもそういうことではないようです。私は、インフォームド・コンセントというのは、あくまでも医師が考えて、それを患者さんに納得してもらう、そういうことが必要だと思うのです。
 たとえば、クモ膜下出血の場合などでも、患者さんを前にして家族を集めてインフォームド・コンセントなんて言ったってナンセンスですよ。その医者が手術するのだと決心したら『こういうわけで手術いたします』と言えばいいのであって『いかがいたしましょうか』ではないんですね。やはり立ち会った医者の能力と決心ですよ。それが中心だと思うのです。そして家族の方に納得してもらう。それが必要なのです。
 ですから、医者というのは自信をもっていないといけないのですが、それにはやはり年期が必要です。若いドクターではなかなか難しいので、そういう場合は先輩のドクターに立ち会ってもらうということが必要だと思います」

 

聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、日野原重明
「日本の医学をもっとヒューマンなものにすべきですね。医学はサイエンスではありますが、すべてがサイエンスではなく、人間は科学では支えられなくなる時期があるのです。末期を迎えた患者さんに対し、医師はお手上げになって『もう、私の仕事は済んだ』というのではなしに、最後まで患者さん、家族をサポートする。そのためには最後の場面では、医学以外の何かが医師には必要です。患者の命を長引かせること以外に、与えられ、許された患者の命を豊かにすることにも、医学は貢献しなくてはなりません。豊かな命は生の長さではなくて、価値観になりますね。価値ある人生を持てるように患者をサポートすべきで、それには医学も意味とか価値の世界に入ってくる。これは科学ではないわけです」


国立身体障害者リハビリテーションセンター名誉総長、日本肢体不自由児協会会長、津山直一
「整形外科は、当時人気のない科で、あまり人が行かなかったんです。しかし単純な科だと思ったわけですね。私は頭脳の力はないが、筋肉の力だけは自信があったので、頭脳より体力でいけそうな科だと思って入っただけの話で、ところがその後整形外科が発展したので、運が良かったわけです」
「これも私は非常に恵まれまして、British Councilのイギリス政府の留学生に選ばれて、イギリスに1年間留学しました。当時は、40日かかって船で行くほうが、3日間の飛行機の旅より安いような時代です。しかも帰りはスエズ運河の戦争で喜望峰経由で帰ってきたという経験もしました。
 イギリスに行ったついでに、ドイツのミュンヘン大学が呼んでくれたものですから、ミュンヘンに7か月ほどおりました。イギリスとドイツの医学を比較して、臨床医学に関する限りは、ドイツを師と仰いだことは、日本の医学にとって不幸であったと今日でも思っております。
 明治維新後、日本に最初の西洋医学校をつくる時に、どの国から教師を招くかという議論がありました。英国のウイリスという維新の時の官軍の軍医を校長にして、一旦は英国から招くことになっていたんです。ところが新政府の内部葛藤があって、プロシャの医学に切り換えたわけです。当時、ドイツはコッホ、ウイルヒョウなど基礎医学は圧倒的に強かったんですが、臨床医学はイギリスのほうがハンター、リスター、オスラー、ジデナムなど立派な先生がいて、ディスカッションで物事を決める態度やナイチンゲールの確立した看護学など臨床医学は上だったと思います。いまだに日本にとって不幸な選択だったと思っております」
「長く教授生活をしていて本当に申し訳ないと思う症例があります。私が手術したためにこじれて亡くなってしまった方もおられるわけです。
 いちばん印象に残っておりますのは昭和23年頃に動脈周囲交感神経切除術をやっているうちに、大腿動脈が破れて大出血をして、2週間ほど患者さんを苦しませたあげくに、切断せざるをえないという経験がありました。
 それもアメリカの二世の方で、日本の医者を信頼してわざわざアメリカから帰って来て、手術を受けたのですが、私の失敗で、片足をなくして帰られたのですね。
 私は横浜まで見送りました。しかし、その方は私を恨まずに『先生は私を治そうとしてこうなったんだから運だ、気にすることはない』と、その後も亡くなるまでつきあってくださり、胸がつまる思いがしました。その時私も、できるだけのこれ以上善後策を講じられないというぐらい夜も寝ずにやりました。やはり、真心を持ってことに当たることが大事だと思いますね」

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