神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任
1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。
「3.11」
その時、私は診察室でPCに向かっていた。クリニックの入っているビルは12階建て。平成5年に竣工したからすでに18年が経とうとしていた。竣工当時は周囲でも際立つ程のインテリジェントビルで、東急建設が設計・施行し、耐震構造もしっかりとしているはずだ。クリニックは2階にあるのだが、時々地震がくれば揺れを感じる事はあった。しかし、自宅で感じる揺れの何分の一かのもので、いつもはどうという事の無いものだった。
この日は往診が無く、たまっていた事務書類に眼を通しながらメールチェックをしていた。その時に、かなりの揺れを感じた。14時47分頃。
スタッフは女性ばかり。「先生、地震です」と診察室に飛び込んで来た。「みんなは大丈夫? 何か壊れた?」「いえ、大丈夫です」「そうか、少し様子を見よう」 そして、いつものように午後3時に午後の診察を始めた。
「ひどい地震でしたね」と患者さん。
「そうですね。しかし、このビルは大丈夫ですよ。しっかりと出来ていますから」と私。
一人目の患者さんの診察を終えて、二人目をお呼びしようとした時、二回目の揺れが来た。
今度は大変な揺れで、スタッフの一人は壁に掴まって床に座り込んでしまった。窓から外を見ると、館内の人達が防災センターからの退去指示で、ビルを囲むようにして大勢心配そうに集まっている。待合室で一人の患者さんが棒立ちになっていた。すぐに彼女が私の小学校の友人の姉だと分かった。よく見知った人なので、「一緒に外に避難しましょう」と連れて出ることにした。スタッフを先に避難させ、電気を消し、イスをストッパーにしてドアを開放し、往診用の羽毛のジャケットを着て、iPhoneと貴重品の入ったショルダーを持って、外階段を衆目の中、降りていった。白衣の集団は目立つ。
「病院の人だ」と注目されるが、すぐにon goingの地震の話で持ちきりになった。
私はiPhoneアプリの「ちょいテレ!1Seg」を持っていたのですぐ繋いで見てみると、マグニチュード8.4というニュースが飛び込んできた。それが修正されて8.8となった。風が強く、研修医の中村先生が白衣一枚で寒そうだったので、すぐ近くにある医局にジャケットを取りにいかせる。しばらくみんなで外にいて揺れが収まるのを待っていると、次々と地震の速報が流れるのを見て驚くばかりだった。津波の被害も報道され、世田谷通りを救急車が通るサイレンの音とともに、沈痛な雰囲気が漂っていた。
しばらくするとぽつぽつと館内に戻る人達が出てきたので、我々も階段を上ってクリニックに帰る事にした。余震のある中、患者さんを何人か診て、それが終わると机の上のPCに向かって早速情報収集に当たった。ツイッターのハッシュタグで#jisinと打つ。するといろいろな情報が入ってきた。
こうした時にSNSが役に立つ。Twitter、Facebookで様々な情報に接する事が出来た。情報をもらうだけではなく、こちらからの情報発信も重要だ。NPO法人全国在宅医療推進協会のホームページには、官庁などから配布される多くの資料を参照するためのリンクを貼った。
http://www.zenzaikyo.jp/
津波の被害は甚大だ。今まで経験した事の無い大きな津波の破壊的なエネルギーに眼を疑った程だ。多くの漁船が海から川、川から市街地へと流される様子は凄まじいものがあった。500~900万円はする漁船がバリバリと音を立てて壊れていくのを見るのは辛いものがある。その後、津波は街を襲い、家々を薙ぎ倒してさらっていった。車はまるでおもちゃのように流されて、あちこちに残骸として残った。
テレビ番組は一斉にNHKの番組を流し始めた。こうした時にNHKは役に立つ。日頃の訓練が行き届いているのだろう、国益に係るこうしたアナウンス部門の充実は民放には望むべくもない。そして、すぐにUSTREAMがTVをLive中継し始めた。TVがなくても、PCとネット環境があれば見られるので、多くの人が助けられたと思う。特にテレビ局の流す地震直後の交通機関情報がネットで見られたのは良かった。
その情報を集めてみると、クリニックのスタッフが帰るのに必要なJRも田園都市線も動いていないことが分かった。たまたまアルバイトスタッフの一人が車で来ていて、練馬方面に行く二人のスタッフを乗せていってくれる事になったので、私はその逆の川崎に帰るスタッフを送っていく事にした。予想していた通り、道は車であふれ、世田谷通りも国道246号も国道1号も、普段は人通りの少ない歩道が人であふれていた。
世田谷から川崎までは、緑が丘や中原街道を横切って裏道を行くのが良い。家内の実家が緑が丘だった事、私が以前勤務していた佐々木病院が鶴見で、ここら辺の道路状況を熟知していたので、二人で相談しながらGPSのナビ地図を参考にして、うまく混雑した通りを回避出来た。幹線道路しか知らない遠方の住民とはそこが違っていたのだが、うまく抜けたと思ったそこここで、電車が通らないのにもかかわらず遮断機が下りていた。いつ開くか分からない遮断機の前で、事情が飲み込めない運転手達がじっと辛抱強く待っているために、後ろから来る車がさらに長い列をつくって並んでしまうというおかしな事になっていた。こういう時には、電車がいつ復旧するかという情報を警察と駅員とが連絡を取り合い、ぎりぎりまで遮断機を開けて車を流すという判断が必要だ。複雑に交差する電車網を持つ首都圏ならではの、災害時交通管制を見直すことが今後は重要となるだろう。
そんなこんなで、いつもは1時間弱で往復出来るところを、3時間余りかかってようやく家までたどり着き、夕飯を食べたのは10時を回ってからだった。
翌日の12日は土曜日。地震の影響で患者さんは来ないかと思いきや、いつもと変わらない多忙な日だった。その上、以前から予定していた「東京内科医会第33回総会および第24回医学会」が、新宿の明治安田生命ホールで14時から行われた。多くの学会や研究会が中止になる中で、会長の英断で開催される事になった。私は「Orgasmic Headacheの一例」という報告演題を出していたので、外来を終えると足早に会場に出向く事になった。いつもよりは少ない出席者だったが、それでも良いディスカッションが行われた事は、臨床内科医会の会員の熱心さによるものと感心した。
その後、地震と津波による被害はさらに大きくなり、2万人を超える死傷者を出す事になった。特に、福島原発の事故は人々を恐怖に陥れることになる。我々医師は、胸部レントゲンを撮るより、ニューヨークに飛行機で行く場合の方が宇宙からの放射線を多く浴びる事になるので、胸部写真の1枚(0.05msy)や2枚どうということはありません、という答えを用意している。しかし、一般の人にとっては「放射能」と聞いただけで恐ろしいと感じてしまうのは仕方が無い。
当初、多くのマスコミが放射能に関する知識の無いままに原発のオドロオドロしい事故映像を流し続けた。原子炉のことになると我々も疎い。そこでSNSに載ったいろいろな情報の中から、客観的なスタンスから知っておいて良い情報というものを流す事にした。それが、現場には行けない我々が出来る唯一の事だったのではないかと思う。そして、同じ情報をメーリングリスト、Facebook、Twitterの3種類のチャンネルで流す。多くの人にこの情報に接してもらいたいからだ。今回の情報発信には、こうした方法をとる人が多かった。
今は被災地に入っていけないにしても、我々にも支援を望んでいる方達になし得る事は多いのではないか。是非とも何か一つを見つけて、被災した人達にAIDの手を差し伸べたいものだ。やることの、やった事の大きい小さいを問われるべきではなく、何らかの方法で一つでも支援の手が届いたなら、その価値を評価すべきなのだと思う。そして、必ずや日本が立ち上がり、世界の人達にその元気な姿を見せられる日が来ることを確信している。