神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任
1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。
「3.11 その後」
クリニックに来る患者さんは、まずビルの中に入ってその暗さに驚く。節電をしているためだ。初めて来院した人は、このクリニックはやっていないのでは、と勘違いをするに違いない、そんな暗さだ。日本中がこの暗さの中で意気消沈している。
今年はお花見も自粛ムードで盛り上がらなかった。花よりだんご、という庶民感覚も萎縮してしまったためだ。被災地からは、自粛を自粛して欲しい、という切ない話も聞こえて来た。天災にあったのは仕方ない、しかし自分達のせいで日本中の他の庶民がそのささやかな楽しみを奪われてしまうのは心苦しい、そう訴えていた。心と心が強く打ち震えていて、誰もが何かをしなければならないと考えていた。
この天災は、まるで日本を試しているようだ。地震、津波、原発事故、一つ一つでも大変な事態であるのに、それが重なって倍どころではない、倍の倍の倍という最悪の事態を迎えている。
それにしても、東北地方の人達の我慢強さと生命力の強さには驚かされる。私の母方の親族には宮城で生活している人が多い。小学校の頃、父が開業して多忙だったので、夏休みにはよく母の田舎に行かされた。年子で生まれた我々三人は、母の実家の兄や妹の家にまとめて預けられた。母は上野から蒸気機関車で長い時間をかけて仙台まで我々を連れて行って、そのままとんぼ返りで帰るのだ。連れて行かれた親戚の家から、鉄橋を渡る蒸気機関車が汽笛を鳴らして去って行くのが見えた。暗い夜に陰のような列車が東京に向かって行くその後ろ姿に、妹達が「おかあちゃ~ん」と泣く声が重なって、今もほろ苦い記憶の中に止まっている。大河原、柴田、勝田といったところに親族が住んでいて、今回の地震被害は軽かったというからそれはそれで安心なのだが、沿岸部の惨状を見聞きするにつけて沈鬱な思いを消し去る事は出来ないでいる。
この震災の余波で、4月、5月に予定していた学会、研究会、宴会が軒並み中止となった。早々と、日本医学会総会が中止となり、WEB上での開催となった。私が理事長をしているNPO法人全国在宅医療推進協会の市民公開講座は、講師の先生が福島で被災して中止となった。事務局が参加者全員に連絡を付けて無事に回避できたが、参加者名簿がなかったら一日中会場前でお断りのために待機していなければならなかっただろう。また、やはり私が理事長をしている国際疾病分類学会も、学会自体は5月21日・22日の予定だったが、交通機関の問題、企業協賛が期待できない状況などから、これも中止せざるを得なくなった。
4月17日には第110回日本皮膚科学会総会がパシフィコ横浜で行われる事になっていて、私が「USTREAMの医学利用」という演題で教育講演をすることになっていた。自分の専門外の学会から教育講演を依頼されたこともあり、ずいぶん前から準備をしていた。多くはないが講演料が出るとの事だったので、それをあてにして講演の内容を充実させるために新しい通信機器やデバイスを購入して準備していたが、残念ながらそれも中止になった。日本臨床内科医会の総会、代議員会、理事会も正規の日程は中止となり、急遽その替わりに4月10日に常任理事会を行い、まとめて議事を通す事になった。その際に、後藤由夫先生が会長をお辞めになり、猿田享男先生が新会長となった。本来であれば大きな会場で全国から集まった代議員に声援を送られての会長交代のはずだったが、日本臨床内科医会3F会議室での簡単な引き継ぎに終わってしまった。関東以北ではあの震災以来、直接、間接に我々の日常活動に大きな変化がもたらされている。これは1000年に一度という天変地異だ。多くの人々が自分の周囲で何が起こったか、それをそれぞれが記録に残しておく必要があるだろうと思う。
(3月18日2時17分 読売新聞 Yomiuri Online) |
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866918/news/20110318-OYT1T00099.htm |
「先生、何とか出来ないですかね」
金曜日の昼休みに携帯電話を丁度手に持っていた時に、知り合いのK先生から電話が入った。いわき市から人工透析が必要な患者が東京にバスで大挙移送されて来ている、という情報だった。410名の患者がまだ落ち着く先も分からないで体育館に集められている、東京都の対応が遅い、そんな心配が先に立っていた。結果的には、東京都が国立オリンピック記念青少年総合センターと日本青年館とに分けて宿泊施設を提供し、大きな混乱はなかったのだが、その日は情報が錯綜し、何かやらねば、という気持ちに火がついた形になった。
詳しく話を聞くと、どうやら賃貸住宅の大手であるエイブルが3ヶ月賃料なしで東京の住宅を提供する事が出来る、ということだった。何とかしたいという気持ちに応じてくれたのが、私が常任理事をしている東京内科医会の望月会長だった。
翌日の土曜の午後、私のクリニックに望月会長をはじめ数人の関係者が集まってくれて、どのように対処するかを話し合った。私の方で事前に患者対応の流れとAssessment Chartを作成していたので、それをbrush upする過程を何回か繰り返し、最終的には東京内科医会と事務所を共有する日本臨床内科医会の事務局長が対応する事を約束してくれて、実際の相談事業が始まった。この活動は、朝日新聞、読売新聞にも掲載された。以下は朝日新聞アピタルの記事である。
すでにこの事業が始まって1ヶ月以上が経つ。かなりの患者は東京から地元にUターンして、以前にかかっていた医療機関での日常的な透析を行えるようになったようだ。しかし、この先の事を考えて、さらに本事業は継続して行く予定だ。
震災直後に必要だった救命活動、DMAT(災害派遣医療チーム)は48時間でその任務を終えた。日本医師会を始めとする医療チームがその後の避難所等の健康管理に力を尽くしている。しかし、地域の人々にとって必要なのは、地域の医療機関であり、地域の医療スタッフだ。顔見知りであり、詳しい問診をしなくても、一目でその人のhistoryが分かり健康状態が分かる、なじみの医師や看護師、介護士の下での医療管理だ。
彼等、彼女等自らが再生し、元気になるためにはどうしたら良いか、それを我々は考え、実行して行かなければならない。外部から被災地に入る救援活動は、その場しのぎだ。そこに何年と居続けることは出来ない。
3.11のその後は、今始まったばかりだ。