神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任
1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。
「父の急逝」
4月16日の午後の診療が終わり、世田谷区医師会内科医会の代謝内分泌研究会の講演があるのでそろそろ出掛けようかと片付けをしていた時に、母からの電話を取った。「もうだめみたい・・・、これから病院に行くって」と話す電話口の向こうから、「いち、に、さん、し!」と、救急隊の蘇生の声が聞こえていた。
何が起こったか分からなかったが、父が死に瀕しているという状況は緊々(ひしひし)と伝わって来た。母も混乱しているらしく、電話が何回も切れる。妻が状況を聞き取り、どうやら露天風呂に入っていて息絶えたらしいことが分かった。
「今からそちらに行くから」と伝えて、すぐに渋谷駅まで妻に送ってもらった。「乗換案内」を見ると、渋谷19時15分の埼京線通勤快速(川越行)に乗れれば、大宮20時06分発のやまびこ219号(仙台行)に乗れる事が分かった。郡山着は21時14分。そこからタクシーで太田熱海病院まで20~30分とのことだったので、22時前には着ける予定だ。
渋谷から乗った快速電車は満員で立ちっぱなしだった。大宮まで行くと、すぐに新幹線の切符を買った。駅で弁当を買い、グリーン車の座席に収まると、妻から電話があった。「7時24分に亡くなった」の知らせだった。
突然の父の死を、どうやって家族で受け止めたら良いか。
私の妹二人に伝えるのに、新幹線の中から電話をかけた。
「落ち着いて聞いて欲しい、今新幹線の中からだけれど、おじいちゃんが亡くなった。これから迎えに行く。東京に妻がいるので、連絡を取り合って待っていて欲しい」そう伝えた。
亡くなったからには葬儀が必要だ。どうやら寝台車は郡山の病院で手配してもらえるらしい。東京に帰ってからの段取りをどうしたらいいか。すぐに、いつも在宅診療で亡くなった家族に紹介している葬儀社の「東都典範」の担当者に電話を入れた。妻の父が亡くなった時にもお願いをして、とても丁寧な葬儀のマネイジメントに信頼を寄せていたからだ。時々トンネルに入って電波が途切れる。いつもの担当のDさんが「えっ、どなたのですか?先生のお父様ですか?」と驚いていた。妻と連絡を取って段取りを進めてもらう事に。こうしたプロフェッショナルとの連携を持っているのも、在宅医療を始めて20年の経験の賜物だ。
郡山駅に着くと、すぐに駅前からタクシーを拾った。まだ地震の影響があるのか、使えなくなった病院の暗い影が寂しい。知り合いの星先生が新病院を建てていて、タクシーの運転者が「右側のあの新幹線の鉄橋の向こうに、新病院が出来ました。大きいですよ」と教えてくれた。
途中の車窓から見る桜はどれも満開だ。父もこれを見て心和んだだろうか。途中、長男が車で向かったというので連絡を取る。「あと二時間ぐらいで行ける」と(21時34分)。
病院に着いたのは21時50分頃か、空気が冷たい。夜の病院は光りが少なく、スポットライトが当るように、受付カウンターの当直事務員の姿を照らしていた。名前を告げると看護師を呼んでくれて、母のいる外来処置室まで案内してくれた。最初に出て来たのは旅館の責任者の女性で、平身低頭であたふたしていた。次に紹介されたのは三越の添乗員。いつも両親がお願いをしている馴染みのスタッフとのこと。彼女もまた顧客に起こった異常事態に動揺し、申し訳ない気持ちで顔が歪んでいた。母は、外来のいくつかあるベッドに荷物共々座らされて俯き加減で肩を落としていた。詳しい事情を聞くと、こうだった。 「バスで着いてしばらくして、風呂へ行くと言った。少し帰りが遅いと思ったけれども、様子を見ていた。露天風呂に入ったらしく、そのまま出て来れなくなったよう」と。飲食はまだだった。
安置している違う外来処置室に案内されると、型の如くストレッチャーに載せられた父がいた。「おじいちゃん、僕だよ、ヒトシだよ、迎えに来たよ!」と呼びかけると、少しだけ表情が変わったような気がした。心肺停止していても、脳幹電位は2~3時間は残るといわれる。だから、呼びかければ聞こえるはずだ、というのが私の立場だ。看取りの現場で患者さんの家族に良くそういって話をしている。恐らく聞こえたのだろう、しまった、という顔なのか、来てくれて感謝している、という顔なのかは分からないが、目が少し吊り上がった感じがした。
しばらくすると当直医が出て来て、事の経緯を説明してくれた。「血液検査をしてみましたが、特に問題はありませんでした。前屈みになって息絶えていたようです。CPRしましたが残念ながら蘇生しませんでした。大分水分を飲んだようで、結構でました」と。その後死亡診断書を書いてくれる事になった。
地下の霊安室に移されると、お焼香する事が出来た。あいにく携帯電話の電波が受信し難く、旅館の人と添乗員は廊下で待っていた。しばらくして、旅館の社長という若い人物が番頭さんと現れた。東京から急遽呼びつけられたらしい。こちらも平身低頭だ。「最近は人が動かなくなるとアラームをならす、そんなものならば備え付けても良いのではないか」とアドバイスする。そんな話をしているうちに、長男が東京から車で着いた。霊安室での父を見ると、落胆したようだった。やはり肩を落としてしばらく椅子に座ったままだった。寝台車の運転手が二名、白衣を着て現れた。福島弁でこう切り出した。「二つ程ご了解頂きたいのですが、この時間の搬送ですので、料金が高くなり22万円となりますが宜しいでしょうか?それと、高速料金は実費で頂きたいのですが宜しいでしょうか?」初めての事なのでまごついたが、福島からの往復だ、夜中の運転も大変だ。了解をして運んでもらう事にした。
二人の看護師と当直医が焼香を済ませると、病院のストレッチャーから葬儀社のストレッチャーに父を乗せ変えてくれた。
地下の霊安室を出てすぐのドアを開けると、外に車が用意されていた。トヨタの新しいワゴン車に父を乗せ、その横の後部座席に私が乗った。寝台車には運転手以外一人しか乗れないので、母は長男の乗って来た車に旅行カバンや手荷物等と一緒に乗り込んだ。結局、出発したのは夜中の0時頃だった。夜の東北道を120kmで走り抜ける。途中一回トイレ休憩を入れて、東京の自宅に着いたのは3時過ぎ、もうすでに長男の車が先に着いていて、母が自宅に入るのが見えた。東都典範のスタッフも待っていてくれて、福島の葬儀社の車から、父の遺体を共に室内に運んでくれた。妻が用意してくれた布団に安置し、遺体に死化粧をするスタッフが付いてくれて、容貌がきれいに整えられた。死に水を取る、というために、水を含んだ綿棒の先を唇に当てる。冥土への旅の支度のために、絹の足袋に絹の脚絆を着けてあげる。皆で焼香するとそれらしい葬儀の始まりになった。それからが大変だ。葬儀の形をどうするか、葬儀場は?実家の宗派は真言宗智山派だから、仏式の葬儀に導師を呼ばなければならない。今は夜中の3時半だ、とりあえず睡眠をとらなければ。。
2、3時間の睡眠をとった後、実家の長野県佐久市にある菩提寺の法禅寺に電話をかけてみた。お寺さんは朝が早いから出て下さるだろうと思ったが、なかなか繋がらない。田舎は電話口まで遠いので、もう少し待ってみよう、と長く呼び出し音を聞いていたら、有難い事に住職さんが出て下さった。眠そうな声で最初は怪訝な声色だったが、毎年8月1日にお墓参りをする際に、いつも横に座る長老の父の事を思い出して下さって「ああ、あの神津先生が?」と話を聞いて頂けた。日程をお話しすると、「若いのをやりますので、東京まで参りましょう」と二つ返事で了承して下さった。結局、住職と副住職のお二人で来て下さって、父を冥土に送って下さった。
入棺、通夜、密葬と、一つ一つが流れるように進行し、濃厚な時間が過ぎて行った。父は多くの要職に就き、交際範囲も広いため、知人友人も多い。お世話になった、あるいはお世話をさせて頂いた多くの方にお別れをして頂くためには、それなりの相応しい場所と時間が必要だと考えて、葬儀と別に「お別れの会」を行う事に決めた。
密葬は、実にしめやかに行われた。ちょうど低気圧が通り過ぎるために気温が下がり、冷たい雨が降って来た。葬儀をやらせて頂いた実相会館は、目黒区中目黒にあって、自宅から車で15分、桐ヶ谷斎場も近く、地の利を得た有難い場所だった。日程が限られた中で、「無理をせずに」とお知らせをしたにも関わらず、いつもは疎遠になっていた遠方にいる親族も、合わせて40~50人が集まって下さった。心に沁みた素晴らしい葬儀を、そのお一人お一人が作って下さった事に感謝を申し上げたい。