神津 仁 院長

神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任


1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。

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「父の『お別れの会』その一部始終(含、准看護師問題についての論考)」 - Part Ⅲ -

 東京都世田谷区若林に、中学生の時からの親友の堀江さんという方がいて、小さな診療所を作っていた、という話は8月号で書いた。堀江さんと父は、「東京に出るからには、一旗揚げよう」と、第一医院という名前の診療所をたくさん作ってチェーン展開したいと思っていた。若林の第一医院を父が借り受け、堀江さんはまた別の所で開業した。
 35歳の若手開業医としての父は、持ち前の馬力で働きに働き、結果はすぐに付いて来た。多くの患者さんから信頼を得て、流行りの開業医になった父は、散歩の途中で見つけた近くの畑の持ち主から土地を買って、120坪の自宅を作った。その後堀江さんから借りていた診療所を返し、自宅に新しい第一医院を作ることになる。まっさらな土地に、父がなりたかった「建築家」の夢を実現させ、自分で設計図を引いた。往診用に使っていた自転車はラビットスクーターに変わり、当時贅沢品だったダットサンのオーナーになった。

 
 順風満帆だった開業医黄金時代に、先の見える人たちは土地を買い、無床診療所を有床診療所とし、病院にと発展させていった。医業という形態のビジネスは、ある意味当時の日本の経済をけん引した一翼を担っていたのだと思う。病院建設は地域の建築業界を潤したし、高級車を買い、宝石や和服を買ったのは医師の奥方達だった。父も軽井沢に別荘を構え、子ども達は皆私立中学・高校へ進学した。

 ただ父は、医業そのものに興味を持って、地域医療を発展させるために邁進する事はなかった。患者さんからは頼りにされ、感謝された医師だったが、父本人は患者を診るのは好きではなかったようだ。診察室にいるより、電話口で医師会関係の用事をしている時間の方が長かったから、母は「患者さんがいても、すぐに診察室から逃げてきてどこかに行ってしまう」と、いつも嘆いていた。「少医は病気を治し、中医は病人を治す。大医は国を直す」という陳腐な言い草があるが、自分は国を直す大医となりたいと考えていたようだ。

 当時、地域医師会という組織は脆弱だった。開業医達は、一匹狼であり一国一城の主として夫々の診療所の診療圏で君臨していたから、群れる事(和を尊しとする事)に価値を認めていなかった。そこで、医師会員を一つにまとめるためにいろいろなイベントを企画した。旧制高校で寮長をやり、寮生をまとめるためにやった過去の経験が役に立ったのがこの頃だった。
 医師会主催の運動会を企画して、その中でもちろん徒競走もあるが、仮装行列で女装をして練り歩いた写真が残っている。医師会主催の文化祭を企画して、演芸をやったり、歌舞伎の真似事を豪華な衣装を借りてやったりと、盛り上がることなら何でもやった。もう覚えていないが、春は花見、夏は納涼会、冬は忘年会、年明けには新年会、創立祝いと、当時は「お祭り会長」と揶揄されるほど、医師会員を医師会組織に引っ張り出すのに一所懸命だったようだ。
 我々子供たちも駆り出され、旅行やドライブに連れて行かれた。母も同様で、医師会員の奥さん連中を一まとめにすることで、様々な行事に後方支援を得られることから、「医師会員の奥様会」なるものを作って、その会長にさせられた。医師会選挙はもとより、国政選挙の票集めなどになると、この奥様会が俄然強みを発揮する。
当時の日本は「冠婚葬祭政治」が真っ盛りで、医師会の大御所が座る周りには、胡散臭いヒソヒソ話と哄笑と頷きのあるのが普通だった。私などはそんな雰囲気が大嫌いなのだが、父はこの環境が大好きで、好んで自分からその輪の真ん中に居ようとしていた。こうした医師会の体質は、全国どこにでもある体質だったようで、一般の人々は医師会という組織を権力者の集まりととらえていたようだ。今もその体質からは抜けきっていない。

 私が小学生の頃、母親の実家である東北地方から、中学校を卒業したての若い女の子達が我が家に来て、住み込みでお手伝いをしてくれていた。多い時には三人程が住み込んでいたこともあった。新築したとは言いながら、お手伝いさん専用の部屋が何部屋もあった訳ではない。別棟に建っていた医院にある四畳半や、母屋の階段下の三畳間等に部屋をあてがって住まわせていたわけだけれど、なぜお姐さん達は狭い所にいて我々兄妹は六畳間なのか、一年中働き詰めで休みも出掛けないのか、矛盾を感じていた。しかし、信州の豪農の家に生まれた父は、幼い頃から乳母や住み込みの「じいや(小作使用人)」がいて、殿様として振舞っていたから、人には夫々階級があるのが当たり前という感覚だったし、それを是認する日本の社会でもあった。勿論、逆の目から見ると、お医者さんの家庭で寝食を与えられ、一般常識や世の中の作法を習い、手に職を付けて、故郷に帰る頃には一人前の娘さんに仕立ててもらう、というのは、戦後の決して裕福ではない田舎の家庭にとっては有難い事でもあったのだ。結婚相手としても上玉ということになり、彼女たちは良い伴侶を得た。今も当時を振り返って、懐かしくも幸せな娘時代だと言ってくれるのは、そう嘘ではないだろうと思う。
 しかし、父にとっては、というよりも、当時の開業医にとって、患者は多いから人手が欲しい、本当なら正看護婦がいてくれれば良いのだが、病院ですら看護婦不足で大変な時に、開業医に就職を希望する正看護師婦などいなかった。であるからして、兎にも角にも、彼女たち(田舎から連れて来た「おぼこ娘」)に白衣を着せて診療の手伝いをさせたわけである。
 しかし、いくら診療の補助といえども「無資格者」を医療機関で雇い続けるのはまずい、という事になったのだろう、彼女たちを私設認定するために、「医師会立附属『副』看護学院」という学校を作ってしまった。もちろん、都道府県の認定でも国の認定でもない資格だから、父の医院で働き、副看護婦になった娘さんが、副看護婦免状を持って岩手県の病院で雇ってもらおうとしたら、雇ってくれなかった、という笑えない話もあった。副看護学院を作ったのは、あくまでも医師の都合、経営者側の論理なのだが、それは明治以来、日本の医療現場の考え方でもあったのだ。その流れが、准看護師養成へとつながって行く。
 世田谷区医師会立副看護学院は、昭和43(1978)年3月に、その任を終えて閉院し、世田谷区医師会附属准看護学校となった。その後、昭和51(1976)年から専修学校に昇格して現在に至っている。

 さてここで、しばし本論を離れ、日本における看護師の歴史的変遷と、現在にまでその根を絶つ事が出来ないでいる「准看護師問題」について論考してみたい。

 明治以来、病院や診療所で医師の手伝いをしていたのは、見よう見まねで医師から教育を受け、西洋風なナースもどきの仕事をしていた助手達だった。今の感覚でいう「看護師」の働きとは別物であって、「医師の小間使い」と言った方が良かった。呉大学看護学部の平岡敬子氏は原著「占領期における看護制度改革の成果と限界」の中で、第二次大戦前の日本の看護婦制度とその内容について以下のように述べている。

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<旧制度による看護婦の実態>

 第二次世界大戦前の看護制度を規定するものは、看護婦は看護婦規則、保健婦は保健婦規則、助産婦は産婆規則である。それらによると、保健婦は高等女学校を卒業後2年以上、助産婦、看護婦は高等小学校卒業後2年以上、地方長官の指定するそれぞれの養成所で学び、18才以上の者にそれぞれの免許が交付された。主な授業科目は医師が講師となり、試験は現在のような国家試験ではなく、各都道府県が所管する検定試験であった。
 看護婦の場合、これ以外にも「見習い看護婦」という徒弟制度があり、1年以上医師について修業すれば、看護婦養成所を卒業しなくても検定試験の受験資格が得られた。また、医師会立の一年間の看護婦養成所が設置され、開業医の下で働きながら、何時問かそこで勉強する方法でも看護婦の資格が得られた。
 戦時体制に入ると、看護婦の養成基準は次第に落とされていった。戦争が激しくなるにつれて、看護婦の需要がますます高まり、その人数を確保するために看護婦の資格規定が緩やかになったのである。まず,資格取得の年齢が1941年に18歳から17歳に、1944年には16歳に引き下げられた。さらに教育期問も短縮され、1943年には看護関連の授業を一定時間受け検定試験に合格すれば、高等女学校の卒業生にも地方長官から免許が与えられた。看護婦の資格は容易に得られるようになり、軍病院以外はこのような方法でつくられた看護婦が圧倒的な人数を占めていた。
 戦争直後、GHQの調べによると、約344,000人の看護婦が従事していたことになるが、正確なところは誰にもわからない。なぜなら、当時はベッド数が10床以下の病院が多く、無資格者も多かったからである。また、個人病院や開業医は、看護婦規則等の定める最低限の条件を満たせばよいという意識から、看護婦、保健婦、産婆の助手が養成されていたからである」

[著者註※なお、ここでは看護師を看護婦としているが、2002年3月の法律改正「保健師助産師看護師法」に伴う名称変更以降は「看護婦」は「看護師」になっている。これは、法律上、行政上の名称変更であり、「看護婦」という慣用的な呼称の使用を、一般市民生活の場において制限されるものではない(女性警察官を「婦警」と呼ぶように)。このような言い換えを「ポリティカル・コレクトネス」という(Wikipediaより)]

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 そして戦後、看護職の法律は一本化され、1948年7月に、「看護職の資質の向上と医療及び公衆衛生の普及と向上をはかるため、保健婦助産婦看護婦法が制定された」。しかし、「看護職の資質の向上」を目的とした法律ではあったが、その当時の既得権者である旧制度で作られた資格を持つ看護婦や助産婦は、新しい制度で作られる看護職の優位性を懸念し、教育期間が長くなると看護職を使いづらくなる医師達も合わせて反対し、理想的な形での専門性を持った看護師の誕生は見送られる事となったのだ。
 平岡氏は、この状況をこう説明している。

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 GHQのアメリカ人看護婦と日本の看護の指導者は、「保健師」あるいは「甲種看護婦」の制度を設けることで、専門職看護婦の地位を確立しようとした。しかし旧制度の看護婦は、新制度の看護婦が自分たちの地位を脅かすことを危惧し、結果的に、自分たちが使いやすい看護婦の養成を望む医師とともに、看護の専門職化を阻む側に立ってしまった。また、戦後の混乱と看護婦不足の社会情勢もまた、専門職看護婦の確立を許さなかった。つまり、「質」よりも「量」が重視され、看護婦数を確保するという名目で准看護婦制度を誕生させた。

 占領期の看護制度改革は、一連の過程に登場するアクター間の利害の調整と対立に、当時の社会情勢が絡み合い、看護職が国家資格になる等の成果はあったものの、もともと制度改革のための土壌のないところでは、GHQの強権的介入にも限界があったといえよう。

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 ステイクホルダーの利害が共通することにより、本来なら対立的思惑によって反発するべき両者が結託して、新しい思想や進歩を阻む事は歴史的に多くある事だが、ここでもそうした事が起きたのだ。そして、看護師資格は二種類になり、甲種と乙種に分かれた。

 

 勿論、乙種看護婦資格は取りやすく、量的な人員を確保するのに都合が良く、賃金も安く使える事から当時の社会状況としては歓迎されるべき職種として重宝された。
 インターネットの「准看護師の成立ち」というホームページには、

看護婦の需要は当時から多く、教育水準の高い看護婦だけではまかなう事は大変であった為、中学校卒業後からなれる、乙種看護婦が誕生しました。

その後昭和26年、甲種・乙種看護婦制度が廃止され、それと同時に看護婦を助けて看護の総力を構成する要員として新しく准看護婦制度は導入されました。

乙種看護婦は、「医師、歯科医師または甲種看護婦の指示を受けて看護婦業務(ただし急性かつ重症の傷病者または褥婦に対する療養上の世話を除く。)を行うこと」とあるのに対して、准看護婦(准看護師)は、「医師、歯科医師または看護師の指示を受けて、傷病者もしくは褥婦に対する療養上の世話または診療の補助を行うことを業する者」となっています。
乙種看護婦には業務制限がありましたが、准看護婦(准看護師)にはありません。
(http://nurse.maketruth.com/naritati.html)


とある。昭和26年4月(1951年)の乙種看護婦から「准看護婦」への法改正の意図は、まさしく使いやすい看護婦を質より量という観点から大量生産することが目的であった。これについても、平岡氏は以下のように、今日まで長く議論されることとなった「准看護師問題」の根を作った、保健婦助産婦看護婦法改正の影の部分を説明している。

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 准看護婦は、都道府県知事の指定を受けて設置された准看護婦養成所で2年以上の教育を受けたのち、都道府県知事の施行する准看護婦試験に合格すれば、准看護婦免許を与えられる。准看護婦制度を設ける理由になったのは、当時、蔓延していた結核である。結核を予防するためには、看護婦の数を増やし、看護力を増強させる必要があるから、看護婦を助け看護の総力を構成する者として准看護婦が必要であると意味付けされた。さらに、結核は重症者が多いことから、結核患者の看護に携わる資格ということで、准看護婦には乙種看護婦のような業務制限はない。また、准看護婦は3年以上業務につき、高校を卒業すれば、看護婦養成学校における2年の修行で、看護婦の国家試験が受けられるという道も用意され、准看護婦が永久資格ではなく、看護婦不足を補う一時的な資格という意味合いもうまく付与された。

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 結核患者が激減した今日、准看護師資格は、キャリアアップのfirst stepとして残されていると理解した方が良さそうだ。現在の所、准看護師の資格を取った学生は、殆どが正看護師を目指して次のステップに上がる。地区医師会は、医師会立看護学校を苦労して運営しているが、その役割を終えるときが近づいて来ているように感じる。看護大学が出来、専門職ナースが高い専門性を備えて今日の医療を支えている時代だ。父の時代の「医師会立副看護学院」がその任を終えて閉院したように、医師会附属看護専修学校による准看護師養成は次の時代を迎える事になるのだと思う。

2013.09.01 掲載 (C)LinkStaff

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