神津 仁 院長

神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任


1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。

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神経学が今まで辿った道

 最近PDF fileをOCR(文字認識)してWordに変換するソフトが手に入ったので、以前から貴重な資料として時々読み返すことがあった古い文章をdigitalに起こしてみた。昔から本を読み、文章を書くことが好きだったので、昔の自分がどんな考えを持ってどんな文章を書いているのか興味があったが、今のメンタリティーと殆ど同じ思考、同じ思索的態度を取っている事に驚いた。脳が同じなら、インプットされたものは蓄積し、アウトプットも似たような色になるのだという事が分かった。

 恐らく、脳の中に入れるものも、自分で取捨選択しているので、方向性は限りなく近いものになるのだろうと思う。取捨選択せずにどんなものでもお構いなしに入れてしまうと、プロットされた点が表の上でばらついてしまうように、「一定の傾向」というものが出にくいのだと思う。そうすると、分布から離れた値に自分自身が引っ張られて、脳は情緒不安定となり、まとまった思考は得られにくくなるのかもしれない。捨てるべき記憶や、価値のない無意味な情報をシュレッドする能力も、また脳の大切な役割なのかもしれない。

 私が大学病院の神経内科医長だった時に、学生教育の一環で神経学の歴史を調べたことがあった。その根底には、父がそうだった帝国大学出身者のpaternalisticな研究医学(「患者は疾患研究のための被験者に過ぎない」という態度)に対する疑問があり、臨床医学の系譜を俯瞰することで自分の立ち位置を確認したいという願望があった。原文はいわゆる論文調で、読み手にconfortableではなかったことを反省し、少し「てにをは」を直して分かりやすく書き直してみた。そして、今の時代に合うようにinternetから写真(これらはパブリックドメインとして使用が許されているもの)を拝借してふくらみを持たせることにした。若い先生方には、大学で教わった事のない、目に触れなかった物語で、そのぶん興味深いのではないかと思う。



 神経を扱う医学である神経学は、西洋においては他の医学的知識の進歩と肩を並べて発達して来た。特に、16世紀にイタリアでアンドレアス・ヴェサリウスらが確立した近代科学的な解剖学の発展は、神経学にも測り知れない影響を与えた。その後、この学問の流れはイギリスに移り、トーマス・ウィリスが脳解剖学に大きな業績を残した。この頃、血液大循環を発見したウィリアム・ハーベイ、17世紀のヒポクラテス(医聖)といわれたトーマス・シデナムなどの優秀な医学者の輩出を得て、近代臨床医学の基礎が確立したといえる。オランダのベルハーベは、臨床的な観察に加え患者の遺体を解剖することにより、その病因の明確な把握を試みる病理解剖の必要性を唱えたが、当時の医学界に受け入れられることはなく、その後に病理解剖学を確立するイタリアの天才モルガニを待たなければならなかった。彼のなし得た病理解剖学は、それまでは殆んど臨床的な経験によってのみ行なわれていた診断と治療に、科学的な裏付けを持ったものとしての医学体系を与え、その後の医学の発達を支えた偉業であったといえる。しかしながら、尚医学は未熟な学問であり、神経病に対する知識も限られたものであった。

 フランス革命(1790年代)、産業革命(1800年代前後)など近代資本主義社会の発達は、大都市の繁栄とそこに作られた大病院の成立をうながした。大病院には各地から豊富な臨床材料が集められ、民主主義革命を背景にしてそれまで因習的恐怖や道徳的反感で妨げられていた解剖が活発に行なえるようになった。医学の科学としての飛躍的な発展がなされたのがこの時代だった。こうした大病院を中心とした医学の発達は、主にイギリスとフランスに生じたが、特にフランスにおいては、古今東西を問わず最も偉大な臨床家といわれるジャン=マルタン・シャルコー(1825~93)が、臨床・研究・教育に素晴らしい業績をあげ、特に臨床神経学の分野で強力な推進者としての役割をはたすことになる。

 一方ドイツでは、イギリスやフランスに近代化の遅れをとっていたが、封建的領主がそれぞれの首都に競って大学を設置し、同時に大学に附属したラボラトリウム(実験室、研究室)を整備し、浪漫的な自然哲学を背景とした純粋な科学の発展に努力をしていた。すなわち、臨床神経学の分野では、イギリス・フランスが優位を保っていたが、研究室を中心とする学問的研究は、次第にドイツがこれを凌ぐ勢いを持つようになっていった。

 翻って我が国の神経病学の歴史をひもといてみると、江戸時代の末期に、漢方医学一筋だった日本の医学者たちにも蘭学を学ぶ者達が輩出して来る。この頃すでに西欧では近代医学の基礎が固まってきていた時代だった。西欧の新知識を目のあたりにした医学者たちは、これを吸収することに心血をそそいだことは疑う余地がない。そうした中で、1774年杉田玄白らによる解体新書の出版が行なわれた。その後、緒方洪庵の「病学通論」(1847年)にはすでに「脳脊髄の左側に病あれば右身麻痺痙攣を発し、右側に在は左身患証を生す」との記載があることから、神経経路のメカニズム、神経病学に対する知識は多少とも日本の医師達に知られていたようであるが、実際の臨床神経学的知識が体系だった学問として知られるようになったのは、明治維新以後であった。

 江戸時代の太平の世以後、日本において特に医学振興の必要が感ぜられたのは、幕末維新の国内動乱の際のことであった。それは官幕双方とも多数の創傷患者を出しながら、いずれも外科に習熟した医師がなく、充分な治療が受けられなかったという事実からだった。その後、烏羽伏見の戦いの際には、イギリス公使ハリー・パークスの命により、当時在日英国館医員として着任していたウィリアム・ウィリスが官軍の治療に従事して大きな功績を挙げる。この頃、医学の振興を行なうために学制の査定を行なっていた山内豊信は、パークス、ウィリスと親しい問柄だったこともあり、当時のイギリス医学の優位性を如実に見た維新の流れからすると、イギリス医学がその後の日本医学の基礎を作っても良さそうに思われるのだが、しかしそうではなかった。

 医道改正御用掛として日本の医学をいかに発展させるべきかを真剣に考えていた相良知安は、その当時自らが学んでいた蘭学書を通して、ドイツ医学の興隆を察知し、イギリス医学よりもドイツ医学の体系を日本に取り入れるべきであると考えたのだった。また一方、立憲君主国としてのドイツの諸制度が、維新後もなお専制君主体制をとっていた日本に受け入れやすいという政治的な配慮も、考慮に入れざるを得ない時代背景もあった。さらに、当時新政府の参議の要職にあった副島種臣らが、フランス・アメリカ等の民主共和制の国風がわが国体に合致しない点を強硬に主張し、結局「ドイツ医学制の採用が廟議の決定となった」のだった。この決定が歴史的必然とはいえ、その後の日本の医学教育、ひいては医療制度全体を方向づける東縛となる「重大な変換点」であったことは間違いない。

 こうした経緯を経て、ドイツから東京医学校にエルヴィン・フォン・ベルツ教授が着任したのは1876年のことだった。このベルツの下で神経学を専攻するために研鑽を重ねていたのが三浦謹之助だった。彼は大学卒業後ドイツに留学し、オッペンハイム、エルブから神経学を、その後フランスに渡り、パリでシャルコーにつき神経学を修めて、独仏の神経病学の実情をつぶさに見てきていた。当然彼とすれば、神経病学の学問としての体系だった教育の必要性を感じていたが、当時の日本では尚受け入れる基盤がなかった。

 その後1894年(明治27年)になって、医家出身の代議士である長谷川泰が、「帝国医科大学に於ける脳脊髄病治療に関する建議」を衆議院に提出する。この建議は、脳脊髄病治療の重要性を強調し、欧米諸国における医学の進歩の著しいこと、ことに伝染病理と脳脊髄病理が特に進んでいること、中でもフランスの医科大学では普通の内科病理と脳脊髄病理とを分けて、全く一科特別の教室を設けて専門の教授をおいている点などをあげ、「新進の三浦謹之助教授が、独仏で5ヵ年の留学研究を終えて帰朝したので、脳脊髄病の病理及び治療の研究室及び病室を新設し、三浦先生を教授にして一講座を新設すべきである。もしこれが実現すれば日本の医学が革新的進歩をとげるであろう」というものであった。しかし、残念ながらこの建議は通らなかった。政治家はもちろんのこと、当時の日本の社会の神経病学に対する認識の低さが原因ではあるが、このために我国の神経病に悩む人々に差しのべられるべき医学の恩恵が、20年も30年も後まわしになってしまった。そしてまた、我国の神経病学の進歩が大幅に遅れたことは、独立の精神病学の講座が1886年(明治19年)にすでに設けられていたことを考えると、正に悔やまれる事実である。

 その後は第二次世界大戦の敗戦に至るまで大きな変化はなかった。しかし神経学に興味を持ち続け、その必要性を感じつつ微力ながら努力していた神経学研究者達がいた。彼らによって、昭和29年第1回神経臨床懇話会が発足。これと並行して昭和31年には第1回内科神経同好会が結成され、ようやく神経学研究の火が公の前に現われはじめる。

 その後、昭和35年には第1回日本臨床神経学会が誕生(会長勝木司馬之助教授)し、その学門的基盤がいよいよ固められた。そして昭和35年、九州大学勝木教授のもとに「九州大学医学部脳神経病研究施設」が文部省の承認を得て設置されることとなった。そして、ここに日本で最初に「神経学講座」が持たれ、教授として黒岩義五郎教授がその任にあたることとなった。昭和39年には診療科も発足して「神経内科」と呼ばれるようになった。

 その後は順調に発展を遂げ、昭和36年には643名であった日本神経学会の会員は昭和54年には3,272名、昭和61年には4,000名を超す立派な学会になってきている。それとともに、日本全国の大学病院、地域の基幹病院に神経内科の診療科が次々と設置され、神経疾患に悩む人々が迷うことなく専門的診療を受けられるまでになってきた。

 すなわち、今日ここに至るまで、杉田玄白から210年、三浦謹之助から91年、勝木司馬之助から25年の長いホップ・ステップ・ジャンプの道が日本の神経内科の辿った道だったのである。

 こうして俯瞰してみると、先人の為しえる歴史的貢献は、ある時は否定され、ある時は政治的な配慮のもとに肯定されるという、個人の力ではどうしようもない潮流に押し流される運命にあるようだ。しかし、目の前の患者を診るという医師の使命を忘れなかった人たちを、後世の人々は忘れることなくその系譜を辿ろうとする。これらの人たちは「世界を変えよう」「社会を変える偉人になるのだ」とは考えなかった。「少医は病気を治し、中医は患者を治し、大医は国を治す」という陳腐な言い方があるが、医師は病気を治し患者を治すために一所懸命尽くす者であって、国を治す者では絶対にない。病気を治し患者を癒す心を持った医師は、自らが意図せずとも社会が彼に倣い、世界は少しずつ彼に導かれていくのだと思う。

2014.6.01 掲載 (C)LinkStaff

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