神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任
1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。
翠心会と医学生の志
米・カの医学生は、high schoolを卒業した後に理系のcollageを出て、しばらく大学や研究所の研究助手をやり、そこの推薦状を持って医学部に進学するというprocessを踏むことが多い。そのため、医学部の学生の年齢層は日本の医学生よりやや高めであり、社会の荒波を多少くぐってきた感があって大人びているように見える。それに比較すると、高校を卒業してすぐに医学部に入る日本の医学生は「未熟」だという見方があって、その人物評価が下がる傾向がある。しかしながら、実際には医学部浪人の平均が3年であるから、人生の長さからいって大した違いはないのだと思う。
ここのところ、父が亡くなり自分は64歳を過ぎて、今までの人生を振り返ることが多くなった。私のgolden ageがいつかと聞かれれば、たぶん医学部の6年間がfirst eraで、開業医になってから現在進行形の臨床医である今のlife workがsecond eraだと思う。医学部では多くのものを学んだが、また多くのものを残してきた。7月号でAspirinの話を書いたが、その元原稿を探しに医学部図書館に行って、「日大クリニック」のページをめくってみると、何号かに一回は自分の書いた原稿が収載されていて驚いた。大学病院にいた時には、臨床、教育、医局員の世話と教授の下働きで手いっぱいだったが、発表論文はかなり多く、systematic reviewから一般紙の取材やテレビ番組の作成等まで手掛けて、いわば八面六臂の活動でアドレナリンが出っぱなしになっていたようだ。たぶん、いろいろなところに迷惑をかけていたのではないかと思うと、多少の反省を込めて、懐かしいとはいいづらいのが正直なところだ。
最近、若くて威勢の良い教授たちの話を聞くと、得意そうに自分が偉いと自己主張のトーンが高いのだが、そのうちその青さに恥入る時が来るのが見えて微笑ましいばかりだ。しかし、その年齢にしか出来ない仕事や表現があるのだから、我々が雲の上から仙人の如く見下ろすだけでなく、世のため人のために価値ある行動へとうまくdriveしてあげることが必要なのだと考える今日この頃でもある。
私のgolden ageにおける活躍の一つは、学生自治会の復興だった。1960年代に勃発した学生運動は、慶応大学、早稲田大学の学費問題における学生の反対運動を端緒として、1968年の日大闘争、東大インターン闘争をピークに日本中の大学で学生運動を巻き起こした。この年、全国の大学の8割となる165校が紛争状態に入っていたというから、大変な状況が起きていたことになる。
Wikipediaによれば、「日大当局の不正経理に対する学生の抗議行動に端を発し、経済学部生の秋田明大を議長とする日本大学全学共闘会議(日大全共闘)を中心に、一般学生や教職員組合、父兄会をも巻き込み、全学的な広がりをみせた」のであり、医学部も例外ではなかった。我々の先輩は教授を椅子に縛り付け、監禁して痛めつけたという。その時に学生に捕まった薬理の教授は、紛争が解除された後になっても学生を恨み、授業の最中にその記憶がフラッシュバックすると「お前らに勝手なことをさせてたまるか!」と興奮して教壇から椅子を投げ、10分、15分と怒鳴り散らすことがあった。それが始まると、他の教室で授業を受けていた学生たちが見物に集まってきて、大変な騒ぎになっていたことを思い出す。当然、活動家として先頭に立った学生は大学側の目の敵にされて落第の憂き目にあった。また、大学は卒業出来ても医局には入れず、地方の国保病院などに流れて行った。
その後「日大全共闘も急進化により一般学生の広範な支持を失い、1969年(昭和44年)春には紛争は収束した。日大全共闘はその後も少数の学生で活動を続けたが、1970年代初頭には自然消滅した」のだが、我々が入学した1971年時には、まだその余波が残っていて、大学医学部の正面には鉄条網が二重三重に巻かれ、IDなしには学内に入れなかった記憶がある。結局、医学部の学生自治会は大学側に強制的に解散させられ、クラブ活動以外の集団活動は御法度となった。つまり、学生の主張を大学側に伝える手段はなくなり、学生は親に学費を払ってもらい通学するだけの家畜と化したといえる。今では、学生がレクチャーする側を評価することが当たり前の時代になっているが、どんな貧弱な講義を受けても、それを批判し改善する希望を述べる事すら出来ないことが、若い血気盛んな学生にとってどれだけ屈辱的だったかは想像するに難くないだろう。その権利を得るために、地下に潜った学生たちは「運動部主将会議」を中心に自治会の再興を謀っていた。何とかして無血革命を成功させたい、学生だけでなく、親も大学医学部も教授会も納得してもらって学生自治を取り戻したい、そう考えていくつものハードルを越えて行った。そしてその完成形が「翠心会」という組織だった。
ここに、その第一号の「翠心会会報」が残っている。38年前の医学部生がどんなことを考え、どんなにしっかりとした活動をしていたかを知ることが出来る貴重な資料だ。OCRで読み取ったので内容を確認してみたい。
永年の念願であった学生自身の手による、学生の為の言論機関が今ここに翠心会会報として発足した。昨年六月頃より翠心会内部において懸案として提出されながらも、予算その他人事に関して折合がつかず延び延びになっていたものである。昨年九月に入り、翠心会主将会議において承認を受け、又学校側、斉藤学生部長等の理解のもとに、活動を開始し、編集局を開設する運びとなった。
昭和五十一年は、日本大学医学部学生にとって、真の意味で新年と言うに相応しい年を迎えた。総主将会議を「翠心会」という名称に改め、学生の総合体を企図して行なわれて来た様々な活動は、ここに一応の帰結を見ることとなった。すなわち、学生代表の翠心会参加、学生の為の報道機関としての翠心会々報発刊、学校、事務、学生の三者の流れを円滑に行なうべく努力する、各翠心会委員の活動といったものが、自然な形での学生団体結成を可能にしたのである。
現在翠心会はその活動と責任において、真に学生の代表と呼ぶにふさわしい姿を整えつつある。会の未熟と、不完全とを言えば切りがないのであって、必要な事は、この場を足掛りとして、学生が十分に学生であり得ることを目的とする為に努力することであろう。その為に、全学生の代表としての翠心会は、今迄各人の胸中に秘められていた様々な顧望を、実現可能な形で取り上げ、これを行なうべく努力する機関として、重大な任務を自らに課しているのである。
昨年、十二月二十日(土)、十二月ニ十四日(水)と二度にわたり、翠心会会長、学生部長、事務課長の三者会談が行なわれ、学生の為の本学運営という観点から忌憚ない意見の交換がなされた。そしてこの場で同様な意見の一致を見た事は、本学が健全な思想のもとに営まれている事を如実に示したものとして高く評価されるべきものであろう。これらの事実は、翠心会の、学生の為の組織であるという自負と、より良い学生生活を望み、本来の意昧での学生であることをとりもどそうとする情熱と決意を示すものであり、学校側が、これを認めて肝胆相照らす友として助力を申出たことに、重大な意味が含まれているのである。
小林秀雄の随筆に「考えるヒント」というのがあり、徂徠、仁斎、宣長らが、物と言葉、言語と学問についての求道的研讃に言及した一文がある。非常に高度な、深みのある探究で、とても理解の及ぶところではなかったが、徂徠の「弁名」に関する一文が、ふと目に止まった。
「物アレバ名アリ」という自然状態から「道」という言葉が聖人により発見され、物全体の「統名」として用いられ、このことによりはじめて、人々の個々の経験に脈絡がつき、人間の行動は、一定の意味を帯びた軌道に乗るようになった。すなわち、そういう精神の目覚めを語っていると見て良いというのである。管見になるが、我々が載いている「翠心会」という言葉にも、凡そこうした心積りが無いでは無い。「翠心会」という名のもとに、医学生としての自負と、自治の目覚めを感じとって欲しいという、少なからぬ配慮が感じられるように思われる。物の分析、名の分析は、それが数量的ではない、こと人問的な事物に関する限り不必要で、むしろ問題を捉え難いものにしてしまいがちである。それを承知の上で、やはり「翠心」という名の由来を記しておかねばならないだろう。
「翠」とは、「スイ」と読み、「みどり」の意を指す。漢和辞典を繙けば、「翠陰」「翠雲」「翠煙」など、緑々とした生命の、自然の清らかさを示す言葉が載っている。また、「翠天」「翠嵐」など、青々とした透明感を持つ言葉として目に触れる。しかし、「翠心」という言葉は見当らない。これは造語なのである。しかし、初々しい生命と、その清涼なる自然を心に持つという意味は、自ら理解されることと思う。そして、この「翠」の「みどり」は「緑」に通じ、そこにもう一つの具体的な意味が付与されている。この事は多くの人が知っている筈だか、本学のスクールカラーが緑色なのである。そして、この医学部の緑は、「緑十字」として、「医」に通じて居り、「翠心」は「医師の心」「医の倫理」に通ずる。こうした理由から、いろいろな意味を含ませながら、「翠心会」という名称を載いたわけなのだった。そしてもう一つの重要な事は、ただ単に、学生団体としての、権利を主張する自治ではなく、「医の倫理」を前提とした、礼節のある権利を、医学生としての義務の上に立った自治を目的とするのだという自覚を忘れないよう、「翠心会」と書したのであった。事細かに、こじつけの様なことを交えながら書綴ってしまったが、前述した様に、これからこの「翠心会」という名称のもとに、今迄はただ単に学校へ授業を受けにくる学生という意味しか持たなかったものが、「真に学生である」ことを考え、実行する学生となるといった、事物の統合的側面を含んだ言葉として、この「翠心会」という名称が用いられることか必要であり、重要なことなのである。その為に翠心会か活用され、十分な活動を行ない、実力を持った学生組織に成長するならば、これに勝ることはないだろう。
翠心会が諸先輩の手によって初声をあげてから高々一年余り。現在の翠心会幹部も、無手勝流で何とかやってきている現状である。これからの発展には、しばしの挫折や、艱難辛苦の厳しい道が待っていることであろう。しかし。この灯を消さず、全ての学生が一致団結してこれを盛り立てていけば、いつか必ず素晴らしい学生生活が送れる日が来ることであろう。
「これからの展望」
こうした意味を付して完成した翠心会は、これから行なわねばならない問題を山積みにしている。当面の問題は、会の運営の基礎となる、完全な組織作りである。前述した様に、今迄の輩心会は、総主将会議と同義であった。ここに、学生代表を置き、これを参加させることによって、縦糸と横糸とを織るごとく、精緻な学生団体作りを目指そうという企図は、観念的には最良のものと信ずるが、これを行なうことは想像よりずっと難しいだろう。事の成否は学生一人一人の手に掛っており、その方向を決する力を持つ各個の受取り方に、問題意識が無ければ、ただ単に烏合の衆としてしか存在しなくなるであろう。しかし、この危険性を孕みながらも、力の限りやって行こうと考える所存である。どうか、心からの支援をお願いしたい。
この翠心会会報は12ページにわたっていて、最後のページには組織図がある。「これからの展望」にあるように、1学年から6学年までのすべての学生が組織されて、一人一人が組織の一員としての自覚と積極的な参加があって初めて成り立つ翠心会なのだが、まだこの時点ではそこまでの意識の高揚は望むべくもなかった。その後執行部のメンバーは、一年生が講義を受けている教室、二年生が講義を受けている教室、三年生が講義を受けている教室へと何回も出向き、学年クラス委員を二名ずつ選出してもらった。各学年が集まると12名が学年クラス委員として翠心会に参加し、会議が開かれると全学組織になったという確かな感触が芽生えた。私が卒業しても翠心会は順調に発展し、今では父母会の名称も「翠心後援会」となった。現在、医学部のHPには以下のように記されている。
しかし、最近は学生との接点もなくなってこんな話も直接伝えることが出来なくなった。この文章が後輩達に上手く伝わってくれると良いと思う。日本の医学生といえども、我々の時代ですらこれほどの思索と行動力を持って、医学生としての自負の元に勉学にクラブ活動にといそしんでいたのだから、米・カの医学生と比較して未熟だとはとてもいえない。むしろ、「incomeのためには眼科医だな」とかいっているアメリカの医学生を見ていると、経済よりも医道に励もうという日本の医学生の志の良さを感じている。そして、その志を折らないで真剣に学生と向き合う、日本の医学教育者の質の向上こそが大事だと思う。