神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任
1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。
「患者さんとの交流で教えられたこと」
<インフルエンザの往診>
「いやあ、お昼にお寺さんに行って行事があったんですよ。ここから、そうですね、40分ほど歩くでしょうか」とAさんが布団の上で正座をして話してくれた。
「坊さんが説教をしている途中で、なんだか寒気がしましてね、それで途中で帰ってきちゃったんです。家で熱を測ったら39℃あるじゃないですか、それで布団に横になって休んでたんです」
「それでも、何となくつらそうなものですから、もう診療が終わりかとは思ったのですが、お薬だけでもとお伺いしたんです」と顔を赤くして熱っぽいご主人の横で、小柄でやさしそうな奥さんが後を継いだ。
実はその日の診療の終わり頃、8歳の子供が熱発で初診し、待合室で嘔吐したものだから、ドイツ製の高級カーペットを剥がして洗浄していた最中に奥さんが来たのだった。お薬だけでも、という事だったが、無診投薬禁止の法的根拠を説明しても87歳の奥さんには難しいし、第一インフルエンザかどうかのチェックをしないと処方も出せない。いつもお願いしている処方薬局に電話をして「7時過ぎになるけれどお願いできるかな?」と聞くと二つ返事で引き受けてくれたから、すぐに往診することにした。
患家はそれほど遠くはないのだが、車で往診をして知ったことがあった。Aさんの家から私のクリニックまでの間に何軒も診療所があり、往診をしたその時刻にまだ診療しているクリニックもあった。自宅から5~6軒先のクリニックに駆け込むことも出来るのに、かかりつけ医の私のところにわざわざ足を運んできてくれているという、そのことだった。ありがたい、正直そう思った。
Aさんの家に上がると、大学生らしいお孫さんが顔を出した。奥さんが「あの子が最初にインフルエンザにかかったんですよ」と説明してくれた。
「同居している娘が『保育ママさん』をしているので、毎日5人の赤ちゃんを預かっているんですが、最近のママさんたちは、ちょっと咳が出ていても熱があっても平気で預けて行っちゃうんですよ。それでまず孫がかかって、次に私がかかっちゃったんです」とAさんの家の事情を解説してくれた。
「では、鼻の中に細い綿棒を入れて、粘膜の細胞を取って調べますから、いいですか?」
「わかりました、どんな格好にしますか?」とAさんが正座のままこちらを向いた。
「そっちを向いて、はい、そうです。綿棒が入りますよぉ、はいっ、結構です」と私。
検査液に綿棒を漬けて、3滴検査キットに垂らすと、1分もしないうちにインフルエンザAのラインが出てきた。
「インフルエンザA型ですね」
「そうですか、ありがとうございます。ほら、先生に水石鹸を持ってきて!」
帰りに奥さんを往診車の助手席に乗せて、待っていてくれた調剤薬局まで送って行った。事前にスタッフに電話で処方を知らせておいたので、調剤はスムーズにいった。「私の方の会計は明日で結構です」と話して奥さんをおろした。ほんの1時間ばかりの往診という日常診療だが、そこで得られるやりがいが確かに我々を元気付けてくれている。
<心を伝える年賀の便り>
早いもので、父が亡くなってもう二年が経つ。葬儀・埋骨が終わってから、毎日二回、出勤のときと帰宅のときに線香をあげて手を合わせることが日課になった。2014年は喪中だったので年賀状は出さなかった。毎年やりとりする賀状の数は800枚~1000枚と多いので、喪中というお知らせは失礼させて頂いた。父の訃報記事は各新聞やインターネットで流されたので、多くの方には知って頂けたと思っていたが、全てを網羅するわけには行かない。患者さんの中にはまだ「大先生はお元気ですか?」と尋ねる人がいるので、そのつど亡くなったことを伝えている。
今年は、喪が明けて久しぶりに年賀状を作った。長男にいつもお願いをして印刷をしてもらうのだが、彼も正規の職に就いたものだからそんな暇もないのに良くやってくれた。1,000枚のはがきの両面をインクジェットプリンターで印刷すると相当な時間がかかる。多少の文句はいわれても、感謝に感謝だ。
いざ年が明けてみると、賀状が不達となったものが6%もあった。住所が変わっているのだ。出張や転勤で住所が変更になるのは会社員では当たり前のことだが、いつもはここまでの数はなかったように思う。それはもちろん毎年住所録を書き換えていたからなのだが、その倍の期間が過ぎると、世の中は大きく動いているのだと感じた。この間に、親しく毎年の便りを頂いていた方の何人かが亡くなっていた事にも驚いた。
■島の便り
Bさんは私が開業する前に勤めていた病院で診ていた方だった。初診時パーキンソン病としてはヤールⅢの状態で、服薬によってヤールⅡあるいはそれ以上の改善があった。リハビリにも積極的に取り組んで、患者-医師関係が良い人だった。しばらく通院治療を行っていたが、実家が島で普請をしたから帰ることになった。島の診療所に診療情報提供書を書いてあげて、何かあったら連絡をしてもらえればいつでも助けになるからと送り出した。一度開業後のクリニックに来てもらったことがあるが、島のものだという焼酎とくさやをお土産にもらった。時々きれいな花を送ってくれて、毎年欠かさず年賀状のやり取りをした。いつも「元気でいる」と書いてあったのだが、今年は違った。娘さんから厚手の封筒に便箋4枚の長い手紙が届いた。
「寒中お見舞い申し上げます。早々にお年賀状をいただきまして本当に有難う存じます。いつもお心に掛けていただき母も大変喜んでおりましたが、平成25年8月10日、とても暑い日、水を飲んでいる際に窒息状態となり、自宅の永年過ごしたベッドで亡くなりました。最後の頃は、ネオドパゾール3錠のみで、日中はベッドから見えるTVを友に過ごせていました…(後略)」
■夫の感謝
Cさんは城北のほうで喫茶店をやっていた。Cさんの奥さんが脳梗塞になり、大学病院の神経内科病棟に入院したときに、私が病棟医長だった。病状にある程度の目処がついて退院した後も、外来主治医として診せて頂いていたこともあり、毎年の年賀状が届くようになった。丹精で整った字体は、真面目で勤勉なCさんそのものを見るようだった。その後奥さんが亡くなったが、年賀状だけはきちんと届いていた。今回見慣れない名前の賀状があって、読んでいくうちにCさんの娘さんからのものだとわかった。
「賀状ありがとうございます。しかしながら、父は平成25年6月15日91歳で永眠いたしました。母が日大でお世話になったのが昭和58年4月ですので、本当に長い間ありがとうございました。父にとり神津先生は母の命の恩人でした。今は母と共に横浜のお墓で眠っております。先生を頼りにされている患者さんの為にも、いつまでもスーパーヒーローの神津先生でいらして下さい。御厚情感謝致します」
自分自身ではスーパーヒーローとは思っていなかったが、患者さんやその家族から見た自分は、いかにも颯爽と診断し治療をし、患者さんや家族を勇気付けていたのだということを改めて知った。そして、その気持ちを乗せてCさんが毎年の年賀状をしたためてくれた事を知った。今、それに応える自分でなければと改めて思う。
■天女のごとく
以前私がやっていた「インターネット医科大学」の相談で知り合った京都の染物工房の方、毎年の賀状でしかふれあう機会はなかったけれど、暖かな心の交流が嬉しかった。京都駅で販売するようになったと嬉しい手紙を添えて、童女のような天女を描いた手ぬぐいを送って下さったこともあった。その方のご家族から、亡くなった報告と、丁寧なご挨拶を頂いた。
「年賀状、昨日受け取りました。昨年10月26日、姉はあの世へと旅立ってしまいました。2014年の賀状をみて喪中のハガキを出しましたので、神津様の賀状がなかったので失礼してしまったかと思われます。姉は亡くなる3日前、自分でタクシーを呼んで入院しました。従兄弟からの連絡で病院に着いた時には話せる状態ではなく、次の日の昼にサヨナラです。みんなビックリ。一番ビックリしたのは姉ではないかと…。京都の家には電気釜にお米がセットされていました。遺品を整理していると、私の知らない姉の交友関係が浮かび上がり、1人暮らしを楽しんでいたんだなぁと安心しました。そのうちのお1人神津様、おつきあい下さってありがとうございました。姉の分まで楽しくお過ごし下さいます様お身体ご無理のないように。50日祭もすみ、姉は天界に落ち着いたと思いますが、姉のテーマであった天女に身を替え、時々舞い降りてきているのではないかと、そんな気のする正月でした。よい年でありますように」
一枚の年賀はがきが、その人だけでなく、そのご家族とも繋がっている事を知った。医師だからこそ受け取ることの出来た手紙の数々に、その方の生きた余韻と儚さとに胸がいっぱいになった。