神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任
1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。
「人生後半の選択」
バージン諸島で家族と一緒にクルージングを楽しみ、夕日が傾く頃、ある島の桟橋に42ftの船を舫だ。入港のための受付をハーバーフロントで済ませて帰ってくると、50歳代の品の良い白人のご夫婦が小さいテーブルを自艇の前に出してコーヒーを飲んでいた。1990年、私は40歳だった。隣に停泊したよしみでお互いに挨拶を交わすと、リゾートでは一般的なTシャツに半ズボンで、夕暮れの少し涼しくなった海風を楽しんでいたご主人が、自分は50歳でearly retirementをし、アメリカ大陸の東海岸からバージン諸島まで船旅をしてきたと教えてくれた。「これから南アメリカの海岸線を旅していこうと思っているんだ」と、笑顔で話す彼はまだまだ若さに溢れていた。船旅といっても、狭い船内に家財道具を詰めて世界一周の旅に出るといった悲壮なものではない。旅先で港に入れば、その土地を探訪し、美味しい食事やワインを楽しむ。一ヶ月ほどクルージングすると、連絡を取り合っていた子供さん達が港に来てくれて、一緒に飛行機で自宅に帰るのだという。そして旅行の間に溜まった用事を済ませてまた船に戻り、次のレグの船旅を楽しむのだと話してくれた。
なるほど、これがアメリカ人の人生を楽しむやりかたなのか、といたく感心した。感心したのと同時に、自分もそんな人生を送りたいが、しかし日本人医師の自分には、このご夫婦のようにearly retirementをして自分の望む老後が暮らせるのだろうか、と漠然とした疑問を抱いて海を見ていたのを思い出す。
在宅医療の推進のために作られた、全国在宅医療推進連絡協議会(この組織は発展的解消を行い、現在は特定非営利活動法人全国在宅医療推進協会となっている)を通じて、日本全国の先進的な地域医療を展開している先生方と多くの知己を得たのだが、名古屋のM先生とは気心が知れた仲となった。
M先生は豪放磊落な性格で、はっきりと物をいうタイプの先生だ。人生のプランニングも明瞭で、「early retirement、いいですね。僕も55歳になったら早めにリタイアしたいと考えているんですよ。そして、1年の1/3は伊勢志摩の別荘で暮らし、もう1/3は南の島で、あとは名古屋の自宅で過ごそうと思っているんですよ」と話してくれた。
私とほぼ同じ世代であるM先生の割り切り方はとても痛快で魅力的だ。私は神津家の長男としての役割がある。父の家業である医業を継いだのもそうだし、両親と同居して我が家を守るというのもその考え方からだ。長野県佐久市にある父の実家である神津家の本家は、460年続く名家だ。現在本家で当主を務める私の従兄弟は子供がなく、男系の血筋でいえば私が直系の男子である。昔から「家」という概念に縛られていて、その反発から逃れようとしたこともあった。しかし、自己の存在を歴史的な時間の中で考えるということをずっとしてきたために、自己実現を優先するというアメリカ人のような行動をとることはできなかった。
私がルイジアナ州立大学留学中に習っていたセスナ機の教官は、30歳そこそこの若い南部人だった。朝の7時に自慢のトヨタカリーナクーペで迎えに来てくれる。飛行場までは20分ほどのドライブで、その間にいろいろな話を聞いた。
「アメリカでは、15歳になったら家から追い出されるんだよ。うちも、15歳になったら母親が『どこへ行って何をしてもいいから、家から出て行きなさい』っていわれて放り出された。しょうがないから勉強しながらバイト先を探していろいろと働いたな。この仕事を始めてからは、ジェット機の免許まで取ったね。それから、大型のモータークルーザーの船長の免許とか。今この教官の仕事の他に、何億円もする船のチーフをしてるんだ、一度見に行ってみるかい?」
彼に連れて行ってもらった岸壁には、それこそ当時流行っていたアメリカのTV番組の「Rich & Famous」に出てくるような大きなクルーザーが停泊していた。
「オレもそのうちこんな船を持つような金持ちになるんだ。American dreamだな」と、彼はにっこり笑った。今頃はどんな人になっているだろうか…。
M先生が55歳を越えた頃、何かの用事で私から連絡を取る機会があった。電話口で一通りの挨拶の後に、今はどんな状況なのか聞いてみた。Early retirementをして、伊勢志摩と南の島でゆっくりと生活を楽しんでいるのかどうか。すると、「とんでもないですわ。母親の足が悪くなりましてね、毎日介護の生活ですわ。ほっておくわけにもいかんでしょう、家から離れられんのですわ」と困惑したM先生の大きな声が聞こえてきた。
なるほど、アメリカなら、15歳で放り出される代わりに、親の面倒を見ないで済む。親は親で自分たちが好きな人生を選択して、海外に移住する人もいれば、ゴルフ場の中に家を買って毎日ゴルフ三昧する人もいる。動きにくくなればナーシングホームで専門的なケアを受ける。それもこれも個人の自己決定だから、極端にいえば子供に相談することもない。子供に養ってもらう必要もない。そうした人生を受け入れてアメリカ人は終末期を迎えることになる。
日本では独居老人が問題だと政治家もマスコミも騒ぐが、先進国では高齢化して自立するのが当たり前で、「孤独死」などと情緒的な言いかたはしない。英語では、dying aloneまたはsolitary deathで、「esp. of someone who lives alone and dies of natural causes at home without anyone knowing(一人で生活している人が、自宅で誰にも知られずに自然経過で亡くなること)」という意味で、日本語では「孤立死」と訳している。
矢部武氏の書いた「ひとりで死んでも孤独じゃない」(新潮新書)にはこう書かれている。
「米国人にとって個人の自由、自立は非常に重要な価値観である。米国人は自分の子供ができると、人に頼らず、自立して生きることの大切さを一生懸命教えようとする。だからこそ彼ら自身が年をとって精神的に心細くなったからといって、子供に老後の面倒をみてくれとはいえないのだ。
米国人は一人で生きることを前提にした社会であり、それゆえに人々は一人暮らしの不安や問題点もよく認識している。だからこそ、政府やNPO、企業などが連携し、社会全体で独居者の孤立や孤独死を防ぐ支援活動に取り組んでいるのである」
「米国でも単身世帯が増加し、一人で亡くなる人は多いが、日本のような孤独死はほとんど聞かない。それはなぜか。日頃から独居者の孤立を防ぐ支援がさまざまな形で行われているからだ。友人や社会的なつながりをもちながら一人暮らしを楽しんで来た人が一人で亡くなった場合、それは孤独死というより『自立死』といったほうがよいかもしれない。そう考えて私は、孤独死と区別するために『自立死』という言葉を使うことにした。一人で死んでいくという点では共通しているが、悲観的で絶望的な響きのする孤独死に対し、自由と自立を大切にしながら死んでいく『自立死』には前向きなニュアンスが感じられる」
「自立死」はその人が精一杯自立して生きて来た結果である。人は誰でも一人で生れ落ち、最後は一人で死んでいく。誰のために生まれたわけでもなく、誰を道連れにして死ぬわけではない。それを受け入れるのがアメリカ人の生き方なのだ。
日本では、武士や商家の長男は家の家督を継ぐために生まれ、次男以下は家系には不必要だと養子に出された。死は時に個人や組織の名誉のために望まれ、敬われ、真の仏になる道として崇拝の対象ともなった。孤立した死は、そうした人々がいないことによって価値が低い死であると日本では認識されている。そのために忌み嫌われ、それを回避しようと多くの努力がなされているが、先進国、西欧のように高齢社会が当たり前の社会では、孤立した死は避けられないもので、そのために社会全体で受け入れる様々なシステムを開発した。
日本は急速に超高齢社会に突入したために、そのノウハウがまだ整わない。介護保険というケアの段階でとどまっていて、その先にある「孤立死」や「自立死」を受け入れる社会基盤が整わないでいる。このギャップを埋めるためには、良く生きたという証が必要だ。アメリカほどではないにしても、人生の後半で、社会のために十分尽くした高齢者が楽しく生き、尊厳のある自立死を迎えるために、国に社会保障を充実せよと要求してどこが悪いというのか。
米国のニューガーテンは、1975年に老年期を暦年齢ではなく、社会的活動度を指標として老年前期(ヤング・オールド)と老年後期(オールド・オールド)の2つに分けることを提唱した。
「老年前期」は労働や子育てなどの社会的な責務から解放され、社会的活動に自分の時間を費やすことが可能な世代(日本でいえば会社を定年になった年代か)。「老年後期」は心身の衰えによって特徴づけられる時期。これに「超高齢期(オールデスト・オールド=85~90歳)」とを加え3段階に分類する場合もある。人の年齢は暦通りには評価できない。若々しい老人もいれば暦年齢よりずっと老けている人もいる。あくまでその人の社会的活動度が老いの程度を決定する。
若者は好戦的である、ということはいろいろな事で確認が出来る。イスラム過激派組織は10代20代が中心だ。「文明の衝突」を書いたサミュエル・ハンチントンが「文明の衝突と21世紀の日本」という本の中で、現在のイスラム教徒が暴力に頼りがちな原因の一つとして「イスラム国家の出生率の高さにかかわっている。これが、15歳から24歳までの『若年人口の激増』を生み出しているのだ。歴史的に見ても、この世代の若者が人口の20%以上を占めると社会は不安定になり、暴力や紛争がエスカレートする傾向がある」と述べている。アッラーの元に行けるのなら、老人がまず爆弾テロをやるのが道理だが、そんなニュースを聞いたことはない。
日本でも、1965年位から若者人口が爆発的に増え始め、日米安保条約の改正をめぐっての安保反対運動や反戦活動、あるいは東大医学部のインターン闘争、学生の自治権をめぐっての学生紛争など、若者の好戦的行動が目立った時代がある。
しかし、昔暴走族のリーダーだった人が若者を諭す教師になり、昔レディースの副総長だった女性が良き母親になっていたり、昔ゲバ棒を振り回し、安田講堂に立てこもった学生運動家が、国立研究機関の総長をしたり、在宅医療で患者さんと真剣に向き合ったりしている。信州大学全共闘議長を務めた猪瀬直樹氏は東京都知事になった。年齢とともに周りが見えるようになり、また先も見えるようになると、そんなにがむしゃらに突っ走る気にはなれないのが普通だ。先鋭化した社会を丸くするのは高齢者の役割だろう。
「労働や子育てなどの社会的な責務から解放され、社会的活動に自分の時間を費やすことが可能な世代」になったら、残りの人生を様々な社会活動に使っていけば、世界はずっと良くなるのではないだろうか。
(資料)
1) The Yacht Market:http://www.theyachtmarket.com/boats/power-boats/benetti/
2) 第一航空株式会社:http://homepage3.nifty.com/ffc/aircraft/aircraft.html
3) 第1節若者を取り巻く社会経済状況の変化(国土交通省):http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h24/hakusho/h25/html/n1111000.html