いよいよ2020年という新しい年が始まった。56年ぶりにオリンピック・パラリンピックが東京で開かれる年でもある。日本が初めて開催した1964年の東京オリンピックの年に私は14歳だった。競技の記憶はほとんどないが、開会式の予行演習を観るのに一家そろって出かけ、陸上競技場のベンチに座ったことをぼんやりと覚えている。むしろ市川崑監督のドキュメンタリー映画が素晴らしくて、そのシーンの一つ一つの方が印象に残っている。
中学生の私にとっては、クラブ活動や恋愛の方が主たる関心事で、今のように情報が津波のように押し寄せてくる時代ではなかったから、国家的事業がどのように行われようと無関係だった。
鎌倉円覚寺
神津家は、慶長12年に初代佐右エ門勝吉が創設したと「志賀神津一族系譜」に記されている。それから数えると413年の古い歴史があり、今の当主忠彦が14代目にあたる。11代の禎二郎も、私の祖父の12代当主猛も、円覚寺派管長釈宗演老師と親交が深く、宗演氏の弟子である釈大眉氏を介して托されたという、宗演遺品や宗演書簡等が、長野県志賀村の父の実家には百点以上保管されているという。釈宗演老師は1919年11月1日に61歳で亡くなったが、私の父康雄が生まれた1919年の3月1日に、父の命名書を書いてくださっているから、長患いをした様子はない。Wikipediaによれば死因は肺炎とあった。
父のお別れ会の時に納戸から探し出して、皆さんにお見せしたものが以下の命名書だ。釈宗演老師の名前の前に瑞鹿山主とあるのは、円覚寺の正式名が瑞鹿山円覚興聖禅寺だからだ。丁寧に書かれたその書体からお人柄が偲ばれる。
神津家では鎌倉円覚寺とのご縁があるためか、禅の修行を教養として受け入れていた系譜がある。私も大学生の時に父に唆(そそのか)されて修行に行かされたことがあった。3月の底冷えがする日の夕刻、円覚寺の山門をくぐった所に目立たない庵があって、そこに三々五々修行を望む若者が集まってくる。誰ともいわず、会話もなく、じっと案内の禅僧が来るのを待つのだ。夕暮れという約束の時間を1時間、2時間と過ぎ、真っ暗な庵の中で、日にちが間違っているのではないか、こんなに待たせる理由が分からない、頭の中でそんな問いと苛立ちとが渦巻いていた。終には、痺れを切らして庵を立ち去る人が一人二人と続いた。
4-5時間が経っただろうか、10人前後の参加者が4人ほどに減った時に、カッカッと早足で若い禅僧が近づいてきて、我々を居士林(在家信者のための禅道場。建物は東京牛込にあった柳生流の剣道場を昭和3年柳生徹心居士より寄進され移築)の中へと招き入れた。待たせることはある意味参加者の振るい落としであり、最低限の参加資格なのだ。その後に簡単なオリエンテーションがあり、道場の中での生活の仕方、食事の作法、座禅の組み方、与えられた一畳のスペースでの寝具の使い方、警策の受け方、そして読経の仕方を教わった。道場の中では他の参加者との会話を禁じられた。食事は一汁一菜と白米。与えられた茶碗は食後に配られるお茶を少し残して、沢庵できれいに濯(ゆす)ぎ、最後に布巾を使って水気を拭う。貴重な水を一滴も無駄にしない禅の教えだ。顔を洗うのも少しの水で、耳の後ろから頭まで丁寧に洗う。トイレは順番に使い、使用後は木の床から金隠しから、つやが出るほど磨き上げる。集団生活に必要な理にかなった衛生的習慣が取り入れられている。
座禅をし、読経をすると、開け放たれた窓から寒風が吹きさらす道場内にいても、寒さを感じない。ある日は雪が降り、道場内にちらちらと舞った。読経を上げる口から出る息は白くても、20代の私の体の芯には火照りがあった。人生のほんの一瞬だったが、禅に接した瞬間だった。数日して生活にも慣れてくると、畳敷きの寺の中に招かれた。襖が開いて高僧が入って来る。軽い物腰で曲彔(きょくろく)に座ると、優しい語り口で仏説を説いた。その後で、禅問答が始まる。我々初心者は聞いているだけだが、何回目かの修行者は受け答えを要求される。高僧の満足する答えが出ないと、鋭く問いただされ、修行者は窮地に立たされる。心を万力でギリギリと締め付けられるような緊張感と自己喪失感に嗚咽する者もいた。究極まで内省を求められ、自己を捨てることから悟りが生まれる。それを実体験することは人生の中でそうはないだろうと思う。
北鎌倉東慶寺
北鎌倉には父の姉が嫁いだ山田家があって、いとこがいたのでよく遊びに行った。私と妹2人がいとこの中では一番年下だったので、随分と可愛がってもらった。山田家の鉄おじさんは渋沢栄一風の経済人で、夏の間はタンクトップと短パンで過ごしていた。庭に小松菜を植えていて、私が行くと新鮮な獲りたてを食べさせてくれた。「緑の葉っぱをたくさん食うと糞がたくさん出るぞ」というのが口癖で、そうなんだ、と感心しながらたくさん食べたのを覚えている。神津家の女性は頭が良くて独立心が強く、気品があって淑やかだが、その裏に隠された芯の強さを持っていると聞いた。鉄おじさんの妻である千枝子おばさんはまさにそんな人だった。荒々しいおじさんと物静かなおばさんの間に何があったのかは子供の私には分からなかったが、何かというと「千枝子はどこだ!」とおじさんがおばさんを強い口調で呼ぶのを聞いて縮こまる思いをしたのを覚えている。夏の暑い日には、焼酎に漬けた梅を私に食べさせてくれて「どうだ、美味いだろう」と得意げに私の顔を覗き込む。すかさずおばさんが「子供に食べさせたらいけないでしょう」と静かに呟くと、「いいんだ!黙っとれ!」と声を張り上げて叱るのが常だった。娘のまさ姉ちゃんは、千枝子おばさんにそっくりの、頭の良い淑女になった。フェリス女学院からストレートで慶應義塾大学に進学し、千枝子おばさんと鉄おじさんの関係性をそのまま引き継いだ夫婦になった。
まさ姉ちゃんは残念ながら癌で亡くなった。その墓は実家のすぐ近くの北鎌倉の東慶寺にある。東慶寺は鎌倉時代の弘安8年(1285)に開創された臨済宗円覚寺派の寺院だ。江戸時代においては、夫との離縁を達成するために妻が駆け込んだ、幕府公認の縁切寺(駆け込み寺)の一つだった。寺は夫に内在離縁(示談)を薦め、調停がうまく行かない場合、妻は寺入りとなり足掛け3年経つと寺法にて離婚が成立した。江戸末期150年で2000人を越える妻が駆け込んだとされている。しかし明治になって縁切りの寺法は廃止、寺の歴史も幕を閉じた。当然、寺は荒れたが、その後の明治38年(1905)、建長寺・円覚寺両派管長釈宗演氏が入寺し、荒廃した寺を復興して中興開山となった。
ここでも、釈宗演老師と神津家との繋がりがあって、東慶寺にまさ姉ちゃんが祀られたのも縁があってのことなのだ。資料の7に載せた「東慶寺と浄智寺|北鎌倉に並び立つ文化人ゆかりの寺」によれば、
山門を過ぎてすぐ左に田村俊子記念碑が立ち、そばには第1回の田村俊子賞を受賞した瀬戸内晴美(寂聴)が植えた2本の桜がある。その隣の鐘楼は、大正5年に神津猛居士が材木を寄進して建立したものだが、神津は、島崎藤村の『破戒』の出版費用を援助したことでも知られる。なお、梵鐘は1350年に補陀洛寺(ふだらくじ)から移されたもの。
とある。まさ姉ちゃんの納骨に親族が集まった時に、由来をよく知る従兄弟が同じ事を説明してくれた。「中の天井を見てご覧、龍の絵が描かれているんだよ」という話に、皆がふ〜んと頷いて写真をとった。その一枚がここに載せたものだが、100年経っても色褪せていない。
最も危険な園芸植物、夾竹桃(キョウチクトウ)
まさ姉ちゃんの弟に、稔さんがいた。昔から動物が大好きで、水産学部に行って深海の研究に従事した。いとこ会を開いてみんなが集まると、ポケットから何かの物体を取り出して年下の我々に見せるのが稔さんのルーティーンだった。
「仁ちゃん、これ何だか分かる?これはね、蛇の脱皮した抜け殻なんだよ、触ってごらん?」
「仁ちゃん、これ何だか分かるかな。これはね馬の臼歯なんだよ。鎌倉の海岸には、昔源氏の侍が乗って戦った馬の死骸が沢山あって、ちょっと注意してみると探せるんだよ、すごいだろう?」
とそんな具合だ。その熱意が、誰もやらないBeach comingの世界を切り拓いた。山田海人というのが稔さんのペンネームで、以下のような本も出版した。
その稔さんが、夾竹桃の花粉を吸い込んで喀血した。
(次号に続く)
(注:40-50年前の記憶を頼って記載しているので、不正確な部分もあるかも知れない事をお断りしておきたい)〈資料〉
- 1) 公益財団法人日本オリンピック委員会:
- https://www.joc.or.jp/past_games/tokyo1964/interview/interview02.html
- 2) 公益財団法人フォーリン・プレスセンター:
- https://fpcj.jp/assistance/tours_notice/p=18810/
- 3) 東慶寺
- https://tokeiji.com/guide/map/
- 4) 縁切寺
- https://ja.wikipedia.org/wiki/縁切寺
- 5) 東慶寺と浄智寺|北鎌倉に並び立つ文化人ゆかりの寺【鎌倉名刹紀行7】:
- https://serai.jp/tour/224767